知多市(ちたし)ってどんなとこ? わたしたちの住(す)んでいる知多市(ちたし)ってどんなとこなんだろう?知多市(ちたし)をもっと知(し)ろう!

  • 知多市(ちたし)の紹介(しょうかい)
  • 知多市(ちたし)の歴史(れきし)
  • 知多市(ちたし)と愛知用水(あいちようすい)
  • 知多市(ちたし)の伝統行事・芸能(でんとうぎょうじ・げいのう)

知多市(ちたし)の紹介(しょうかい)

知多市の誕生日

知多市の誕生日

わたしたちの住(す)んでいる知多市(ちたし)は、昭和(しょうわ)45年(ねん)9月(がつ)1日(にち)に知多市(ちたし)になったんだよ。

知多市の位置

知多市の位置 知多市周辺

愛知県(あいちけん)の西側(にしがわ)が江戸時代(えどじだい)には尾張(おわり)と呼(よ)ばれていた地域(ちいき)だよ。この尾張(おわり)の南(みなみ)、海(うみ)に突(つ)き出(で)ているのが知多半島(ちたはんとう)っていうんだ。この知多半島(ちたはんとう)には、半田市(はんだし)、常滑市(とこなめし)、東海市(とうかいし)、大府市(おおぶし)、知多市(ちたし)の5つの市(し)と、知多郡(ちたぐん)という集(あつ)まりの阿久比町(あぐいちょう)、東浦町(ひがしうらちょう)、南知多町(みなみちたちょう)、美浜町(みはまちょう)、武豊町(たけとよちょう)の5つの町(まち)があるんだよ。

知多市(ちたし)のまわりには、北(きた)に東海市(とうかいし)、東(ひがし)に東浦町(ひがしうらちょう)、阿久比町(あぐいちょう)、南(みなみ)に常滑市(とこなめし)があって、西(にし)は伊勢湾(いせわん)に面(めん)しているよ。知多北部(ちたほくぶ)と呼(よ)ばれる仲間(なかま)のうち、大府市(おおぶし)は誕生日(たんじょうび)が知多市(ちたし)と同(おな)じ昭和(しょうわ)45年(ねん)9月(がつ)1日(にち)なんだよ。

知多市の地形

知多市の地形

知多市(ちたし)の面積(めんせき)は、約(やく)46平方(へいほう)キロメートルで、三角形(さんかくけい)のような形(かたち)をしているよ。
大昔(おおむかし)は海(うみ)だったところも多(おお)いから、海水(かいすい)や雨水(あまみず)や川(かわ)などにけずられた跡(あと)が、丘(おか)になったり谷(たに)になったりして複雑(ふくざつ)に入(い)り組(く)んだ地形(ちけい)になっているんだよ。

知多市(ちたし)章(しょう)

知多市(ちたし)のマーク

知多市(ちたし)のマークは知多町(ちたちょう)が発足(ほっそく)した時(とき)に公募(こうぼ)で決(き)まったんだよ。
ひらがなの「ち」をもとにデザインしたんだって。この形(かたち)は、上(うえ)は鵬(おおとり)(想像上(そうぞうじょう)の巨大(きょだい)な鳥(とり))が翼(つばさ)を広(ひろ)げ、大空(おおぞら)にまい上(あ)がる姿(すがた)を、下(した)は市民(しみん)の団結(だんけつ)と和(わ)を表(あらわ)しているんだよ。

知多市(ちたし)の木(き)と花(はな)

市の木「ヤマモモ」

市(し)の木(き)は昭和(しょうわ)45年(ねん)9月(がつ)にヤマモモに指定(してい)されているよ。市役所(しやくしょ)の玄関前(げんかんまえ)の両脇(りょうわき)にはヤマモモの木(き)が植(う)えられているよ。

市の花「ツツジ」

市(し)の花(はな)は昭和(しょうわ)46年(ねん)9月(がつ)にツツジに指定(してい)されているよ。市役所(しやくしょ)のまわりや佐布里(そうり)パークロードの他(ほか)、市内(しない)のあちらこちらに植(う)えられているよ。

市の花「梅」

平成(へいせい)27年(ねん)9月(がつ)1日(にち)に、ふたつ目(め)の市(し)の花(はな)に「梅(うめ)」が指定(してい)されたんだ。佐布里池周辺(そうりいけしゅうへん)の梅林(ばいりん)はとっても有名(ゆうめい)だよ。

知多市のマスコットキャラクター

知多市のマスコットキャラクター

知多市(ちたし)のマスコットキャラクターは「ふゅうちゃん」っていうんだ。
平成(へいせい)2年(ねん)に知多市(ちたし)が20歳(さい)になったのを記念(きねん)してつくられたんだ。

ふゅうちゃんは、海(うみ)に面(めん)した知多市(ちたし)をイメージして、魚(さかな)と鳥(とり)のデザインを主体(しゅたい)に、飛躍(ひやく)を意味(いみ)する「翼(つばさ)」と進化(しんか)を表現(ひょうげん)する「車輪(しゃりん)」を付(つ)けているんだ。全体(ぜんたい)のデザインは、市(し)の市章(ししょう)のデザインもとり入(い)れているよ。

ふゅうちゃんの名前(なまえ)は、知多市(ちたし)の未来(みらい)ということでFuture(フューチャー:英語(えいご)で「未来(みらい)」)をとって市民(しみん)からの名前(なまえ)を募集(ぼしゅう)して決定(けってい)したので、「ふゅうちゃん」と名付(なづ)けられたんだよ。

知多市の友好交流国

知多市の友好交流国

知多市(ちたし)はカタール国(こく)という国(くに)と友好交流(ゆうこうこうりゅう)をしているんだよ。
平成(へいせい)17年(ねん)に愛知県(あいちけん)で行(おこな)われた万国博覧会(ばんこくはくらんかい)「愛(あい)・地球博(ちきゅうはく)(愛知万博(あいちばんぱく)ともよばれているよ)」では、愛知県(あいちけん)のすべての市町村(しちょうそん)が参加(さんか)して、一市町村一国(いっしちょうそんいっこく)フレンドシップ事業(じぎょう)を行(おこな)い、万博(ばんぱく)に参加(さんか)した外国(がいこく)の人(ひと)たちを歓迎(かんげい)したんだ。カタール国(こく)は知多市(ちたし)のフレンドシップ事業(じぎょう)の相手国(あいてこく)だったんだよ。

知多市の下水道

知多市の下水道

知多市(ちたし)ではきれいなまちで、みんなが快適(かいてき)に生活出来(せいかつでき)るように、早(はや)くから下水道(げすいどう)の整備(せいび)を始(はじ)めたんだ。
その結果(けっか)、平成(へいせい)25年(ねん)4月(がつ)1日(にち)では、知多市内(ちたしない)で下水道(げすいどう)が使(つか)える人(ひと)の割合(わりあい)が、94.6パーセントになったんだよ。これは、愛知県(あいちけん)では、名古屋市(なごやし)に次(つぎ)いで2番目(ばんめ)なんだよ。

知多市(ちたし)の歴史(れきし)

わたしたちの住(す)んでいる知多市(ちたし)は、愛知県(あいちけん)にある知多半島(ちたはんとう)の北西(ほくせい)にあって、昭和(しょうわ)45年(ねん)9月(がつ)に知多市(ちたし)になったんだよ。大昔(おおむかし)から現在(げんざい)までの、知多市(ちたし)の歴史(れきし)を紹介(しょうかい)するね。

大昔の知多市

大昔の知多市 二股貝塚
二股貝塚(ふたまたかいづか)

知多市(ちたし)には、市内(しない)で見(み)つかった資料(しりょう)から、旧石器時代(きゅうせっきじだい)から人々(ひとびと)が狩猟(しゅりょう)などで訪(おとず)れていたと考(かんが)えられているよ。本格的(ほんかくてき)に知多市(ちたし)の地域内(ちいきない)に人(ひと)が住(す)み始(はじ)めたのは縄文時代(じょうもんじだい)からで、7000年(ねん)くらい前(まえ)の「二股貝塚(ふたまたかいづか)」と「楠廻間貝塚(くすばさまかいづか)」などの遺跡(いせき)からは、狩猟(しゅりょう)・採集(さいしゅう)の生活(せいかつ)のあとが見(み)られるんだ。
弥生時代(やよいじだい)に入(はい)ると、新(あら)たに伝(つた)わった稲作中心(いなさくちゅうしん)の定住型(ていじゅうがた)の生活(せいかつ)が営(いとな)まれていたよ。

写真上(しゃしんうえ):縄文時代~古墳時代(じょうもんじだいこふんじだい)の道具(どうぐ)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))
写真下(しゃしんした):二股貝塚(ふたまたかいづか)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))

古墳時代から・平安時代中ごろの知多市

古墳時代から・平安時代中ごろの知多市 製塩土器
海を味方に塩づくり

5世紀末(せいきまつ)ごろから平安時代中(へいあんじだいなか)ごろには、海岸地域(かいがんちいき)で海水(かいすい)と製塩土器(せいえんどき)を使(つか)って塩(しお)づくりが盛(さか)んに行(おこな)われていたんだ。作(つく)られた塩(しお)は特産品(とくさんひん)として奈良(なら)の都(みやこ)に送(おく)られていたんだよ。
八幡(やわた)の法海寺(ほうかいじ)では、白鳳時代(はくほうじだい)の古瓦(ふるがわら)が出土(しゅつど)しており、古(ふる)くからあったお寺(てら)だということがわかっているよ。

写真上(しゃしんうえ):製塩土器(せいえんどき)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))
写真下(しゃしんした):法海寺発掘現場(ほうかいじはっくつげんば)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))

鎌倉・室町時代の知多市

鎌倉・室町時代の知多市 七曲古窯跡
知多半島の丘陵はやきものの一大生産地

平安時代(へいあんじだい)の後半(こうはん)から鎌倉時代(かまくらじだい)を中心(ちゅうしん)に、山茶碗(やまぢゃわん)や山皿(やまざら)、壺(つぼ)、甕(かめ)などを焼(や)く丘陵部(きゅうりょうぶ)の斜面(しゃめん)を利用(りよう)した窯(かま)が知多半島(ちたはんとう)のあちこちにあって、そこでつくられたやきものは全国各地(ぜんこくかくち)に流通(りゅうつう)していたよ。
知多市内(ちたしない)では、八幡(やわた)の七曲公園(ななまがりこうえん)の敷地内(しきちない)に「七曲古窯跡(ななまがりこようあと)」があって、保存(ほぞん)されている窯跡(かまあと)を見(み)ることができるよ。他(ほか)にも、加世端古窯址群(かせばたこようしぐん)、大知山古窯址群(だいちやまこようしぐん)などといった発掘(はっくつ)された古窯群(こようぐん)のほか、かつて存在(そんざい)していたことが知(し)られているものも数多(かずおお)くあり、その数(かず)は知多市内(ちたしない)で約(やく)100基(き)の窯(かま)が確認(かくにん)されていて、未確認(みかくにん)のものを含(ふく)めると、もっと多(おお)くの窯跡(かまあと)があったと思(おも)われるよ。

写真上(しゃしんうえ):800年前(ねんまえ)の壺(つぼ)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))
写真下(しゃしんした):七曲古窯址群発掘現場(ななまがりこようしぐんはっくつげんば)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))

江戸時代の知多市

江戸時代の知多市 江戸時代の知多市
地区ごとの特徴が現われる江戸時代

江戸時代(えどじだい)になると、知多半島(ちたはんとう)は尾張藩(おわりはん)が統治(とうち)するようになったんだ。人々(ひとびと)は農業(のうぎょう)を中心(ちゅうしん)にした生活(せいかつ)を営(いとな)んでいたけど、大(おお)きな川(かわ)が流(なが)れていないうえ、年間(ねんかん)を通(とお)して雨(あめ)が少(すく)ない知多半島(ちたはんとう)では、たびたび日照(ひで)りの被害(ひがい)に苦(くる)しめられ、思(おも)うように農業(のうぎょう)ができなかったんだ。
このころの知多市(ちたし)は16の村(むら)に分(わ)かれていて、それぞれの村(むら)では土地柄(とちがら)にあった作物(さくもつ)や、生産品(せいさんひん)をつくったり、技術(ぎじゅつ)や芸能(げいのう)を副業(ふくぎょう)としたりすることで得(え)た収入(しゅうにゅう)を生活(せいかつ)の足(た)しにしていたんだ。
たとえば、岡田村(おかだむら)では江戸時代中(えどじだいなか)ごろに、さらしの技術(ぎじゅつ)を得(え)て、木綿(もめん)を白(しろ)くさらした製品(せいひん)「知多木綿(ちたもめん)」を江戸(えど)(現在(げんざい)の東京(とうきょう))に出荷(しゅっか)したところ、大(おお)いに商売(しょうばい)が繁盛(はんじょう)し、村(むら)が栄(さか)えたんだ。
黒鍬(くろくわ)と呼(よ)ばれる土木技術集団(どぼくぎじゅつしゅうだん)として冬(ふゆ)の間(あいだ)の仕事(しごと)として出稼(でかせ)ぎに行(い)った人(ひと)たちもいたし、大野鍛冶(おおのかじ)とよばれる鍛冶(かじ)の技術(ぎじゅつ)のある人(ひと)は、各地(かくち)をまわって農具(のうぐ)を直(なお)すなどの仕事(しごと)をしたりしていたんだ。

写真上(しゃしんうえ):機織(はたお)り機(き)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))
写真下(しゃしんした):鍛冶道具(かじどうぐ)と製造品(せいぞうひん)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))

明治・大正・昭和初期の知多市

明治・大正・昭和初期の知多市 明治・大正・昭和初期の知多市 明治・大正・昭和初期の知多市
16の村から八幡・岡田・旭へ

江戸時代(えどじだい)の知多市(ちたし)の地域内(ちいきない)は、堀之内(ほりのうち)・廻間(はざま)・中島(なかじま)・平井(ひらい)・朝倉(あさくら)・古見(こみ)・佐布里(そうり)・岡田(おかだ)・森(もり)・鍛冶屋(かじや)・松原(まつばら)・大草(おおくさ)・羽根(はね)・北粕谷(きたかすや)・大興寺(だいこうじ)・南粕谷(みなみかすや)の16の村(むら)に分(わ)かれていたんだ。
明治(めいじ)に入(はい)るとすぐに、16あった村(むら)は合併(がっぺい)して、八幡(やわた)・新知(しんち)・佐布里(そうり)・岡田(おかだ)・日長(ひなが)・金沢(かなざわ)の6つの村(むら)になり、明治後半(めいじこうはん)にはさらに合併(がっぺい)が行(おこな)われ、八幡村(やわたむら)・岡田町(おかだちょう)・旭(あさひ)村(むら)の3つになったんだ。
八幡村(やわたむら)では、佐布里地区(そうりちく)で桃(もも)の木(き)に梅(うめ)を接(つ)ぎ木(き)した「佐布里梅(そうりうめ)」という品種(ひんしゅ)の梅(うめ)が生(う)まれ、地区(ちく)の人々(ひとびと)が畑(はたけ)や田(た)んぼのあぜなどに競(きそ)って植(う)えたんだって。1万本(まんぼん)の梅(うめ)の花(はな)が谷(たに)を埋(う)め尽(つ)くす様子(ようす)を見(み)に、観光客(かんこうきゃく)が訪(おとず)れるようになったんだよ。
江戸時代(えどじだい)に知多木綿(ちたもめん)を江戸(えど)で売(う)って栄(さか)えた岡田村(おかだむら)は、明治時代(めいじじだい)になると機械(きかい)を使(つか)った綿布生産(めんぷせいさん)にいち早(はや)く切(き)り替(か)え、岡田地区(おかだちく)には綿布工場(めんぷこうじょう)がたくさん建(た)って、知多木綿(ちたもめん)の生産地(せいさんち)としてさらに発展(はってん)したんだ。
旭村(あさひむら)では、愛知電鉄(あいちでんてつ)(現在(げんざい)の名鉄(めいてつ))が大正(たいしょう)2年(ねん)に全線開通(ぜんせんかいつう)するとともに、新舞子地区(しんまいこちく)を一大(いちだい)リゾートとして開発(かいはつ)したんだ。別荘地(べっそうち)としてモダンな洋館(ようかん)が建(た)ち並(なら)び、周辺(しゅうへん)には動植物園(どうしょくぶつえん)や水族館(すいぞくかん)、野外演芸場(やがいえんげいじょう)があったんだよ。

写真上(しゃしんうえ):佐布里(そうり)の梅林(ばいりん)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))
写真中(しゃしんなか):昭和(しょうわ)10年(ねん)ごろの岡田(おかだ)の街並(まちな)み
写真下(しゃしんした):明治末(めいじまつ)ごろの新舞子海水浴場(しんまいこかいすいよくじょう)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))

合併図(がっぺいず)

知多町誕生・知多市誕生

市制記念パレード 愛知用水工事完成

昭和(しょうわ)30年(ねん)4月(がつ)1日(にち)に八幡町(やわたちょう)、岡田町(おかだちょう)、旭町(あさひちょう)の3つになっていた町(まち)が合併(がっぺい)して、知多市(ちたし)のもとになる知多町(ちたちょう)が発足(ほっそく)したんだ。「知多町(ちたちょう)」の「知多(ちた)」という町(まち)の名前(なまえ)は、知多郡(ちたぐん)、知多半島(ちたはんとう)からきているんだよ。簡単(かんたん)で呼(よ)びやすく、知多木綿(ちたもめん)、知多海苔(ちたのり)といった産物(さんぶつ)や、知多浜(ちたはま)といった観光地(かんこうち)や、他(ほか)に知多市(ちたし)のいろいろなことを表(あらわ)すのに使(つか)われていたから、みんなが賛成(さんせい)したんだ。
この昭和(しょうわ)30年代(ねんだい)には、知多市(ちたし)をひっくり返(かえ)す出来事(できごと)がたくさんおきたんだよ。愛知用水(あいちようすい)が引(ひ)かれて、農業(のうぎょう)をするのに水(みず)の心配(しんぱい)をしなくてもよくなったり、海岸(かいがん)の埋(う)め立(た)てが始(はじ)まり臨海工業地帯(りんかいこうぎょうちたい)ができたり、その工場地帯(こうじょうちたい)に水(みず)を引(ひ)くために、佐布里地区(そうりちく)に調整池(ちょうせいいけ)が造(つく)られたり、工場(こうじょう)で働(はたら)く人(ひと)が増(ふ)えることを考(かんが)えて、市内(しない)のあちこちで森(もり)や林(はやし)を削(けず)って家(いえ)を建(た)てられる土地(とち)を増(ふ)やしたりしていったんだよ。
知多町(ちたちょう)が知多市(ちたし)になったのは、昭和(しょうわ)45年(ねん)9月(がつ)1日(にち)だよ。これは昭和(しょうわ)45年(ねん)3月(がつ)の国会(こっかい)で「人口(じんこう)が3万人以上(まんにんいじょう)あれば市(し)にできる」という法律(ほうりつ)ができたからなんだよ。
このときの知多市(ちたし)の人口(じんこう)は39,837人(にん)、世帯数(せたいすう)は9,454世帯(せたい)だったんだよ。

写真上(しゃしんうえ):市制施行(しせいせこう)パレード(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))
写真下(しゃしんした):愛知用水(あいちようすい)工事完成(こうじかんせい)(歴史民俗博物館(れきしみんぞくはくぶつかん))

知多市(ちたし)と愛知用水(あいちようすい)

知多市(ちたし)と愛知用水(あいちようすい)

知多市(ちたし)と愛知用水(あいちようすい) 愛知用水(あいちようすい)工事(こうじ)開始(かいし) 愛知用水(あいちようすい)工事(こうじ)完成(かんせい) 知多市(ちたし)と愛知用水(あいちようすい) 佐布里(そうり)梅(うめ)の花(はな)

むかしから知多半島(ちたはんとう)は水(みず)に不自由(ふじゆう)をしていたんだ。なぜって、知多半島(ちたはんとう)には雨水(あまみず)をたっぷりためておけるような、雪(ゆき)をかぶり広(ひろ)い森林(しんりん)を持(も)った高(たか)い山(やま)も、山(やま)からの水(みず)がたっぷり流(なが)れる川(かわ)もないからなんだよ。そのうえ、季節(きせつ)によっては雨(あめ)が降(ふ)らない日(ひ)が1カ月(げつ)くらい続(つづ)くところが知多半島(ちたはんとう)なんだって。

この地方(ちほう)でお米(こめ)をつくるためには、昔(むかし)から「ため池(いけ)」をつくって、池(いけ)から水路(すいろ)を使(つか)って水(みず)を引(ひ)かなきゃいけなかったんだ。知多半島(ちたはんとう)に、大小(だいしょう)あわせて9600個(こ)といわれる数多(かずおお)くのため池(いけ)があったのはそのためだよ。
この地方(ちほう)の人々(ひとびと)が「木曽川(きそがわ)の水(みず)を知多半島(ちたはんとう)まで引(ひ)いてくることができたら」と考(かんが)えていたのは遠(とお)く江戸時代(えどじだい)にもさかのぼると言(い)われているよ。
1945年(ねん)に夢(ゆめ)の用水(ようすい)を実現(じつげん)しようという人(ひと)があらわれた。それが知多市八幡(ちたしやわた)の久野庄太郎(くのしょうたろう)という人(ひと)だよ。彼(かれ)は、仕事(しごと)のひまを見(み)ては現地(げんち)へ行(い)き、調査(ちょうさ)を行(おこな)ったんだ。そして、同(おな)じように調査(ちょうさ)をしていた濱島辰雄(はまじまたつお)らをはじめとする仲間(なかま)の協力(きょうりょく)を得(え)て、着々(ちゃくちゃく)と夢(ゆめ)の実現(じつげん)へ向(む)かっていったんだ。
その後(ご)、世界銀行(せかいぎんこう)(IBRD)からたくさんのお金(かね)を借(か)りて、1961年(ねん)9月(がつ)に用水(ようすい)が完成(かんせい)し、水(みず)が通(とお)ったんだよ。

この用水(ようすい)は長野県(ながのけん)の牧尾(まきお)ダムに水(みず)を貯(た)めて、その水(みず)を岐阜県(ぎふけん)の木曽川兼山地点(きそがわかねやまちてん)で水(みず)を取(と)り入(い)れ、水路(すいろ)によって愛知県犬山市(あいちけんいぬやまし)から知多半島先端(ちたはんとうせんたん)まで水(みず)を送(おく)るものだったんだ。
この水路(すいろ)の長(なが)さは、約(やく)112キロメートルで、枝分(えだわ)かれした水路(すいろ)の合計(ごうけい)は約(やく)1012キロメートルにもなったんだ。「愛知用水(あいちようすい)」は今(いま)では、海(うみ)を渡(わた)って篠島(しのじま)や日間賀島(ひまかじま)まで伸(の)びているんだよ。

「愛知用水(あいちようすい)」の完成(かんせい)で、知多半島(ちたはんとう)の農家(のうか)の人(ひと)たちは安定(あんてい)して水(みず)が使(つか)えるようになったので、農地(のうち)を広(ひろ)げたり、作物(さくもつ)がたくさん取(と)れるようになったりしたんだ。そして安心(あんしん)して飲(の)める水(みず)も使(つか)えるようになって、ひとびとの生活(せいかつ)は大(おお)きく変(か)わっていったよ。
さらに「愛知用水(あいちようすい)」によって大量(たいりょう)の水(みず)が送(おく)られるようになったので、鉄鋼(てっこう)・機械(きかい)・自動車(じどうしゃ)・化学工業(かがくこうぎょう)などの工業(こうぎょう)にも大(おお)きな発展(はってん)をもたらしたんだよ。
ところで、知多市(ちたし)の佐布里池(そうりいけ)は、愛知用水(あいちようすい)を臨海工業地帯(りんかいこうぎょうちたい)に引(ひ)くために造(つく)つくられた調整池(ちょうせいいけ)で、昭和(しょうわ)38年(ねん)9月(がつ)に工事(こうじ)が始(はじ)まり昭和(しょうわ)40年(ねん)5月(がつ)に完成(かんせい)した人工(じんこう)の池(いけ)なんだよ。佐布里池(そうりいけ)ができる前(まえ)の土地(とち)には、人家(じんか)や畑(はたけ)、田(た)んぼがあって、畑(はたけ)や田(た)んぼのあぜには梅(うめ)の木(き)がたくさん植(う)えられてすばらしい景色(けしき)だったんだって。

知多市(ちたし)の伝統芸能(でんとうげいのう)と伝統行事(でんとうぎょうじ)

尾張万歳(おわりまんざい)

御殿万歳(ごてんまんざい) 法華経万歳(ほけきょうまんざい)

知多(ちた)の尾張万歳(おわりまんざい)は1996年(ねん)に国(くに)の重要無形民俗文化財(じゅうようむけいみんぞくぶんかざい)に指定(してい)されたんだよ。
尾張万歳(おわりまんざい)は、名古屋市東区(なごやしひがしく)の長母寺(ちょうぼじ)の住職(じゅうしょく)であった無住国師(むじゅうこくし)が、仏教(ぶっきょう)を人々(ひとびと)にわかりやすく教(おし)えるために万歳(まんざい)をつくり、弟子(でし)の徳若(とくじゃく)が節(ふし)をつけたのが始(はじ)まりといわれているよ。
知多半島(ちたはんとう)は、田(た)んぼや畑(はたけ)にできる土地(とち)が少(すく)なかったのでお金(かね)をたくわえておくことがむずかしかったんだ。そこで、田(た)んぼや畑(はたけ)ができない冬(ふゆ)の間(あいだ)の出稼(でかせ)ぎとして、たくさんの人(ひと)が「万歳(まんざい)」をするようになったんだ。「出稼(でかせ)ぎ」っていうのは、住(す)んでいるところからはなれた別(べつ)のとちに出(で)かけて、何カ月(なんかげつ)も仕事(しごと)をすることをいうんだよ。

大正時代(たいしょうじだい)には万歳(まんざい)の劇団(げきだん)も作(つく)られて劇場(げきじょう)などで興業(こうぎょう)が行(おこな)われ、年間(ねんかん)を通(とお)して働(はたら)く仕事(しごと)としても成(な)り立(た)つようになったんだ。
ところが、昭和(しょうわ)の中(なか)ごろに、テレビがみんなの家(いえ)で見(み)られるようになると、万歳(まんざい)の仕事(しごと)は少(すく)なくなってしまったんだ。やめてしまう人(ひと)もたくさんいて、劇団(げきだん)もほとんどなくなってしまったんだ。知多市(ちたし)には尾張万歳(おわりまんざい)をなくさないように保存(ほぞん)していこうという活動(かつどう)をしている人(ひと)たちがいるんだよ。

朝倉(あさくら)の梯子獅子(はしごじし)

朝倉(あさくら)の梯子獅子(はしごじし)

毎年(まいとし)、10月(がつ)の第(だい)1日曜日(にちようび)には朝倉(あさぐら)の牟山神社(むさんじんじゃ)において梯子獅子(はしごじし)が行(おこな)われるよ。江戸時代(えどじだい)のころから続(つづ)く伝統行事(でんとうぎょうじ)で、愛知県(あいちけん)の無形民俗文化財(むけいみんぞくぶんかざい)に指定(してい)されているよ。
むかしむかし、朝倉村(あさくらむら)にイノシシがあらわれて田畑(たはた)をあらしまわるので、村人(むらびと)はとてもこまっていたんだ。そこで、村人(むらびと)の惣右衛門(そうえもん)という人(ひと)がこのイノシシを退治(たいじ)するために梯子(はしご)をつくり、村人(むらびと)みんなできょうりょくしてイノシシを梯子攻(はしごぜ)めにして退治(たいじ)したんだ。それからは田畑(たはた)をイノシシにあらされることもなくなったので、よろこんだ村人(むらびと)たちは豊作(ほうさく)をおいわいした。でも、退治(たいじ)したイノシシのことをかわいそうに思(おも)って供養(くよう)することにしたんだ。それが梯子獅子(はしごじし)の始(はじ)まりだといわれているんだよ。

大野谷(おおのだに)虫供養(むしくよう)行事

大野谷(おおのだに)虫供養(むしくよう)行事

この行事(ぎょうじ)は、夏(なつ)の間(あいだ)の農作業(のうさぎょう)のため仕方(しかた)なく殺(ころ)した虫(むし)たちを供養(くよう)し、翌年(よくとし)の豊作(ほうさく)を願(ねが)う行事(ぎょうじ)として行(おこな)われているよ。常滑市(とこなめし)と知多市内(ちたしない)の12の地区(ちく)が毎年交代(まいとしこうたい)で行(おこな)っているんだ。その年(とし)の当番(とうばん)の地区(ちく)は、前(まえ)の年(とし)の年末(ねんまつ)から次(つぎ)の年(とし)のはじめころまで道場供養(どうじょうくよう)を行(おこな)うよ。祭壇(さいだん)が設(もう)けられ、阿弥陀如来(あみだにょらい)などの掛(か)け軸(じく)がまつられ、朝(あさ)と夕方(ゆうがた)には「お念仏(ねんぶつ)」が唱(とな)えられるよ。お参(まい)りに来(き)た人(ひと)はおさい銭(せん)をあげて、お茶(ちゃ)やお菓子(かし)をいただいて帰(かえ)るんだ。愛知県(あいちけん)の無形民俗文化財(むけいみんぞくぶんかざい)に指定(してい)されているよ。

岡田の祭礼

岡田の祭礼

毎年(まいとし)4月(がつ)に行(おこな)われているお祭(まつ)りだよ。3台(だい)の山車(だし)が岡田地区(おかだちく)の町中(まちじゅう)を引(ひ)き回(まわ)されるんだ。岡田地区(おかだちく)は里組(さとぐみ)、中組(なかぐみ)、奥組(おくぐみ)と3つの組(くみ)からなっていてそれぞれの組(くみ)が1台(だい)ずつ山車(だし)を持(も)っているんだ。この山車(だし)は、知多市(ちたし)の文化財(ぶんかざい)に指定(してい)されているよ。いまから400年(ねん)ほど前(まえ)の江戸時代(えどじだい)の初(はじ)めのころからずっと続(つづ)くお祭(まつ)りなんだよ。

日長神社の祭礼

日長神社の祭礼

毎年(まいとし)4月(がつ)に行(おこな)われているよ。ごうかな馬具(ばぐ)で飾(かざ)った馬(うま)を神社(じんじゃ)に献上(けんじょう)するお祭(まつ)りだよ。高張提灯(たかはちょうちん)を先頭(せんとう)にして、祭(まつ)りの責任者(せきにんしゃ)・お囃子(はやし)・馬(うま)・子(こ)どもたちなどの順(じゅん)で行列(ぎょうれつ)になって神社(じんじゃ)に向(む)かうんだ。馬(うま)の引(ひ)き手(て)は、42歳(さい)の厄年(やくどし)の人(ひと)が行(おこな)うことになっているよ。

八社神社の祭礼

八社神社の祭礼

毎年(まいとし)4月(がつ)に行(おこな)われているよ。螺鈿(らでん)で飾(かざ)られた山車(だし)を北粕谷地区(きたかすやちく)で引(ひ)くお祭(まつ)りだよ。長(なが)い間(あいだ)お休(やす)みをしていたけれど、平成(へいせい)26年(ねん)4月(がつ)から神社(じんじゃ)の外(そと)での山車(だし)の引(ひ)きまわしが復活(ふっかつ)したんだよ。
八社神社(はっしゃじんじゃ)の山車(だし)は、花王車(かおうしゃ)という名前(なまえ)で、江戸時代(えどじだい)の中(なか)ごろに半田市(はんだし)の亀崎地区(かめざきちく)で造(つく)られ、しばらくしてから半田市(はんだし)の板山地区(いたやまちく)に譲(ゆず)られたんだ。その後(ご)、北粕谷地区(きたかすやちく)が昭和(しょうわ)2年(ねん)に買(か)ったんだって。花王車(かおうしゃ)を最初(さいしょ)に作(つく)った半田市(はんだし)の亀崎地区(かめざきちく)は、財力(ざいりょく)が豊(ゆた)かな地区(ちく)だったので、豪華(ごうか)な螺鈿細工(らでんさいく)にかざられたすばらしい山車(だし)を造(つく)ることが出来(でき)たんだよ。

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