STORY of CHITA 知多市のあゆみ

82 13 12 13 16 埋蔵文化財 地中に埋まった文化財(埋蔵文化財=遺跡)は、私た ちの暮らす土地の歴史や文化を知ることのできる貴重 な遺産です。知多市内には旧石器時代から近代までの 貝塚や古墳、窯跡、城跡など、約100カ所の遺跡が知ら れています。 これらの場所では、工事を行う前に届け出を出した り、調査をしたりすることで、遺跡や出土品を後世に残 すようにしています。 文 化 財 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 マメナシ( イ ヌナシ) 稲 荷 神 社( 金沢 )のマメナ シは 、樹 高 は mあり 、樹 齢は170 年 以 上と 推 定さ れます。マメナ シはイヌナシとも 呼 ばれ 、 東 海 地 方でまれにみられる 植 物です 。開 花 はサクラよ り 1週 間 ほ ど 遅く 、ヤマザ クラに似た白い花を咲かせます。 八 幡 神 社 本 殿 江 戸 時 代 知 多 市の北 部に位 置する八幡 神 社は、 寺 本 4 カ 村( 堀 之 内 村 、廻 間 村 、中 島 村 、 平 井 村 )全 体 を 守 護 す る 神 社 で 、八 幡の 地 名 の 起 源 で も あ り ま す 。貞 享 2 ( 1 6 85) 年 造 営の本 殿は、三間 社 流 造 りの 桧 皮 葺で、基 壇 と なっている 石 組み は こ の 地 方 の 伝 統 的 な 黒 鍬 の 石 工 技 法 で組まれています。 知 多 岡 田 簡 易 郵 便 局 明治 ( 1 90 2) 年に 建 てられた 県 内 最 古 級の郵 便 局 舎 で す 。こ の 郵 便 局 を 通 し て 、出 稼 ぎ の 女 工 さ ん が 手 紙 を 出 し た り 、仕 送 り を したりしました。 岡田の 古い街 並 み 岡田村は、慶長 ( 16 0 6) 年に奥村、中村 、 里 村の3つの 村 が 統 合 され 誕 生し まし た 。農 家 では 副 業 として機 織 り が 行われてお り 、 享 保 年 間( 17 1 6 〜1 7 3 5) に 岡 田村 の 中 島 七 右 衛門 と 竹 内 源 助 が江 戸 の 木 綿 買 継 問 屋 株( 鑑 札 ) を 取 得し 、知 多 木綿の 販 路 を 全 国 に 拡 げ ま 明し治た。 年頃から動力織機が輸入され、織布工 場 が 立 ち 並 ぶ町 に な り ま す 。戦争 を 挟 み 、昭 和 年 代 まで知 多 木 綿生 産の中 心として、最 盛 期 には 3 0 0 0 人 もの女 工 さ ん が 働 き、 に ぎわい をみせていました。 その後 、綿 織 物 生 産の中 心が 海 外に 移 り 、木 綿工 場 は現 在では1 社 だけとな り まし た が 、岡 田の 街の 中には 当 時 をしのぶ歴 史 的な 建 物 数 多く 残り 、街 並み見 学や機 織り 体験が楽しめる場所になっていま す。 現 在 、4カ 所 件の建 物 が国 登 録 有 形 文 化 財 に登録されています。 木 綿 蔵 ち た( 旧 竹 内 虎 王 商 店 木 綿 蔵 ) 木 綿 問 屋の商 品 倉 庫として建設された 蔵で す 。現 在 は 機 織 り 体 験 や 木 綿 製 品の 販 売 を 行 う「木綿蔵ちた」 として活用されています。 佐 布 里 梅 佐 布 里 地 区を 中 心に栽 培 されている 梅の品 種で、2 月 から 3 月にかけて薄 紅 色の 花を 咲かせ 、6 月 ごろに 実を 付 け ま す 。明 治 時 代 初 期 、佐 布 里 地 区 内で鰐 部 亀 蔵 氏に よって作られた と されてお り 、現 在 市 内 各 地に 植 えられ ている 佐 布 里 梅は 、接 ぎ 木で増やされた 同じ 遺 伝 子 型を 持つクローンであることが確認されて います。 七 曲 古 窯 址 七 曲 公 園の 中に 、公 園工 事の た め に 発 掘 調 査 さ れ た A・B・ Cの 3地 区の 中で、A 地 区の1 号 窯 と 3 号 窯 が 保 存 てい ます。1 号 窯は 世 紀 末の山 茶 碗 や 皿 を 焼 い た で 燃 焼 室 か ら焼成室の下部が、3号窯は 世 紀 末 の 甕 窯 焚 口 から 煙 道 部 ま での 床 面 全 長 約 m がそ れ ぞ れ 残ってい ま す 。 現 在 は建 屋で 覆 われていて 、全 容を見ることができます。 そうりうめ まがり こようしなな まんじんじゃほんでんはち 平 安 〜 鎌 倉 時 代 やわた

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