80 文化 財 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 大 日 如 来 坐 像 鎌 倉 時 代 大 日 如 来 とし て は 全 国 的 に も 大 き く 、高さ が160㎝ あります。写 実 的な 表 情 や 立 体 的 に 彫 られ た 衣 、全 身 の 彩 色 が 特 徴 です 。市 指 定の 薬 師 如 来 坐 像 と一緒 に 地 蔵 寺 大 日 堂 に安 置 さ れてい ます。 地蔵 寺 慈眼 院 阿 弥 陀 如 来立 像 鎌 倉 時 代 上 げた 右 手 と 下 げた 左 手のそれ ぞれ 親 指 と 人 差 し 指 で 輪 を 作 り 、表 情 は 非 常 に 穏 や か で す。人 が亡くなるときに極 楽 浄土から 雲に乗っ て迎えに来る 来 迎を 表 現している 、立ち 姿の阿 弥陀如来です。 照 徳 寺 地 蔵 菩 薩立 像 平 安 時 代 失 わ れ ている 両 腕 は 、左 手 で 宝 珠 を 捧 げ 持 ち 、右 手を 前 に 出 し て 錫 杖 を 持 って立つ姿だったと 思われます。 彩色も落ちてしまって い ますが、表情は平安 時代後期に彫られ たものが良く残っ ています。 金 銅 両 界 大 日 如 来・聖 観 音 菩 薩 懸 仏 永 仁 四 年 銘 鎌 倉 時 代 大 興 寺には 板に仏の 像を 貼 り 付けた 懸 仏 が4 面 伝 わっていて 、いずれ も 鎌 倉 時 代の 作 品 です 。 その う ち 3 面 に は 、永 仁 4( 1 2 97) 年の 年 代 や 、 「 知 多 郡 大 野 庄 大 福 寺 」の 名 前 が 墨 書 さ れて お り 、室 町 時 代に一色 範 氏 が 再 興し 、大 興 寺 と 改 名する前の寺院の歴史を物語って います。 大 興 寺 大 般 若 波 羅 蜜 多 経 室 町 時 代 大 般 若 波 羅 蜜 多経 は 、7 世 紀 に 玄奘 三 蔵 (三蔵 法 師 )がイン ドから 唐に持ち帰り 、翻 訳 し たも の が 原 本 で す 。如 意寺 の 資 料 は 室 町 時 代に 書 き 写したもので、完 成 に は 第 1巻 の 明徳 元( 13 9 0) 年 か ら 第 6 0 0 巻 の 応 永 3( 13 9 6) 年 ま で 6 年 の 歳 月 が 費やされました。 如 意寺 釈 迦 十六善 神 像 室 町 時 代 釈 迦如 来 を 中 心 として「 般 若 経 」に 関 係のあ る 諸 尊 を 集 め 描いたものです。 文 殊 菩 薩、普 賢 菩 薩、深 沙 大 将 、玄 奘三 蔵 、婆 薮仙、功徳天のほか、 四天王などが周囲に配置されています。 大 智院 鰐口( 永 正六年 ) 室 町 時 代 永 正6( 1 50 9) 年に作られた 、 青 銅 製の 鰐 口 です 。お 寺 の 軒 先 に吊 り 下 げ 、 参 拝 の 際 に 打 ち 鳴 らして使われた ため 、表 面の中 央 部 の装飾は打ちつぶされています。 極 楽 寺 だいにちにょらいざぞうじぞうぼさつりゅう ぞう みだにょらいりゅう ぞうあ 梵 鐘( 宝 治 元 年 在 銘 ) 鎌 倉 時 代 愛 知 県 内 に 国 重 要 文 化 財の 指 定 を 受 け た 梵鐘 は 3 点あ り 、その う ちの1 点です 。刻 ま れ た 銘 から 、現 在の 岐 阜県 南 西 部に 所 在していた 清 水 寺のた めに 、宝 治 元( 12 4 7) 年 に 山 河 助 清によ り 作 られ たこ と が 分 か り ま す 。年 代の判 明 している、鎌倉時代 の梵鐘の代表作として貴重なものです。 八社 神 社 美州不破郡 清水寺 奉鋳冶鐘 宝治元丁未九月廿二日 東大寺大工散位山河助清 衆徒 于時永正六年己巳十一月六日敬白 尾州智多郡寺本保内泉養山極楽寺鰐口 しょう ぼんじがんねんざいめいほう こん えいにんねんよめい どうりょう かいだいにちにょらいしょう かんのんぼさつかけぼとけ わにぐちえいしょう ろくねんだいはんにゃはらみたきょう しゃかじゅう ろくぜんしんぞう
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