STORY of CHITA 知多市のあゆみ

8 3 35 16 10 今も趣のある風景が残る岡田の街並み 岡田春まつりで集う3台の山車と梶人たち 知多 市彩 景 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 岡田 の 街 並 み 江 戸 時 代 か ら「 知 多 木 綿 」の 特 産 地 と し て 栄 え た 岡 田 地 区 に は 、江 戸 か ら 明 治 時代の土蔵や黒坂塀など、趣のある風景が今も残ります。 大 正 初 期 に 建 て ら れた 木 綿 蔵 を 活 用 し た「 木 綿 蔵・ち 」で は 、伝 統 的 な 手 織 り を 体 験 す る こ と が で き 、 と 手 織 り の 技 術 を 伝 て い ま す 。ま た 、 明 治 年に建てられた知多岡田簡易郵便局は、愛知県内でも最古級の局舎で、 現在も 簡易郵便局として使われています。 岡田春まつりは、本祭が4月 日に近い日曜日に行われ、前日の夜 に試楽が 行 わ れ ま す 。祭 り の 起 源 は 定 か で は あ り ま せ ん が 、3 台 の 山 車 の う ち 中 組( 岡 田 二 区 )の 山 に 天 保 年 の 作 と 書 か れ て い ま す 。古 い 史 料 に よ る と 元 禄 2 年 す で に 山 車 が あ っ た と さ れ て お 、さ ら にさ か の ぼ る 可 能 性 が ます。 3 台 の山 車 は 、そ れ ぞ れ 里 組 が「 日 車」 、中 組 が「 雨 車 」、 奥 風 車 」 と 呼 ば れ 、毎 年 持 ち 回 り で 先 導 役を 務 め 「 先 車 」の と き に 多い 天 候 を 表 し て い る と い わ れ て いま す 。ま た 、そ れ ぞ れ が 特 色あ る 木 偶 を 有 し て お 、上 山 で 演じ ら れ る 上 木 偶( か ら く り 人 形)と 前 台 で 演 じ ら る 下 木 偶(あ や つ り 人 形 )が 祭 の 見 物 客 を楽 し ま せ て く れ ます。 ようこそ知多へ ㈱ IH Iのゴラ イアスクレーン 株 式 会 社 I H I愛 知工 場 は 、昭 和 年 に 名 古 屋 南 部臨 海工 業 地 帯 の 北 浜町 で 操 業 を 開 始 し ま し た 。国 内 最大 級の「 1 0 0 万t ド ッ ク」を 備 え た 最 新 鋭 の 造 船 所 と し て 、大 型 の 石油・ L N G タ ン カ ー や 「 東京 湾 ア ク ア ラ イ ン 」の ト ン ネ ル 工 事 に 使 わ れ た 掘 削 機 、 大 型 海洋 プ ラ ト な どを 生産 し 、日 本 の 経 済 成 長 支 え ました。 日 本 の 造 船 業 は 、昭 和 年 代 後 半 に は 世 界 シ ェ ア の % を 超 え ま し た が 、韓 国 や 中 国 が 台 頭 劣 勢 を 強 いら れ るよ う に な り 、平成 年 に は 愛 知 工 場 は 閉 鎖されることとなりました。 愛 知 工 場 の 2 基 の ゴ ラ イ ア ス ク レ ー ン は 大 型 門 型 ク レ ー ン で 、数 百t も の 重 量 物 を 吊 り 上 げ る こ と が で き 、 造 船 所 の 象 徴 的 な 存 在 で し た 。名 古 屋 港 や 中 部 際 空 港 、鉄 道 、高 速 道 路 な ど 、ど こ か ら で も 目 立 つ 本 市 の ラ ン ド マ ー ク と し て 多 く の 市 民 に 親 し ま れ て き ま し た が 、惜 し ま れ つ つ 令 和 2 年 に 撤 去 されました。 でく

RkJQdWJsaXNoZXIy NDY3NTA=