知 多 市になるまで 昭 和 年 代の激 動 和 年 代( 19 5 〜19 6 4) は 、知 多 市 域で 大きな出来事や変化が起こりました。 ( 1 95 9) 年9月 、 東 海 地 方を 襲った 伊 勢 湾 台 風 は 、 知 多 市 域で計 20 0㎜ 以 上の 大 雨 と 最 大 瞬 間 風速mの 暴 風 を も た らし まし た 。さ らに 満 潮 と 重 なった こ と で 高 潮 が 発 生 、沿 岸 部を 中 心に 大 きな 被 害を 受けました。校 舎が半 壊した新田 小 学 校は、翌 年 新築移転することになります。 ( 1 96 1) 年 9月 日には 、牧 尾 ダムから木 曽 川を 経 由し て知多半島の先端まで水を流す愛知用水 が 通 水し 、4年 後の ( 1 96 5) 年には 調 整 池であ る 佐 布 里 池 が 完 成し まし た 。 それ まで井 戸やため池 に 頼 り 、常 に 水 不 足 に 悩 んでいた知 地 域の 念 願 で あり、今も地域の生活や産業を支えて います。 ま た 、数 千 年 間にわた り 漁 業 が 営 まれた 知 多 市 域 の沿 岸 部でした が、高 度 経 済 成 長 期の中で、 年 代 後 半から 埋 め立てとコンビナート 化 が 進むこ とにな り ます。漁 師たちは漁 業や海 苔 養 殖を 廃 業し 、多 くがサ ラリ ーマンに転 職し ました 。また 、内 陸 部の宅 地 化も 進み、農 業や 漁 業 、繊 維 産 業で成り立っていた 知 多 町 は、 名 古 屋のベッドタウンへと 変 化していくこ とにな ります。 市 制 施 行 昭 和 ( 19 7 0) 年 9月 1日 、知 多 市 が 誕 生し ま し た 。それに 先 立つ 4月に 名 鉄 朝 倉 駅 北 側に 新 築 移 転した ばか りの 町 役 場 庁 舎 が 、その ま ま 市 役 所 庁 舎 となりました 。当 時の山 本 仁三 市 長は、 「『 明るく住み よい緑 園都 市 』建 設 をスロ ー ガンに 、緑いっぱい の 公 害のない明 るく 住みよい都 市 づく りにまい進 する 覚 悟であります」 と決意を語っています。 3町 合 併 昭 和 ( 19 5 5) 年 4 月 1 日 、現 在の 知 多 市 の 前 身の 知 多 町 が 、八 幡 町 、岡 田 町 、旭 町の合併によって誕生しました。 合併 時の人 口は 3万 9 8 6人でした 。知 多の名 前は 、郡 名の 知 多 や 特 産 品の 知 多 木 綿 、知 多 海 苔の ように、この地を代表する名称 であったこと か ら 採 用 さ れ ま し た 。知 多 を 名 乗 る こ と に 周 辺の 自 治 体 からの 反 対 はなかった そ うで す。 太 平 洋 戦 争 日 本 は 、昭 和 ( 19 3 7) 年 に 日 中 戦 争 を 、 ( 19 4 1) 年に 太 平 洋 戦 争を 開 戦し ま す 。 男 性は召 集 令 状( 赤 紙 )が 届 くと 争に 行 き 、女 性や 子 ど も た ちは軍 需工場という 闘 機な どを 作る工場で働きま した 。知 多 市 域では、大きな 空 襲を 受けることはあり ま せ んでし た が 、名 古 屋へ空 襲 に 向 か う 戦 闘 機 が 上 空 を 通 過 す る と き に は 、防 空 壕 に 隠 れてお び えて 過 ごしました。 戦 時 中の ( 19 4 4) 年 月には 東 南 海 地 震 、翌 年 1月には 三 河 地 震 が 発 生していま す 。情 報 が 隠 さ れ 記 録 が ないた め 、どの よ う な 被 害 が あった か 明 ら かではあ り ま せん が 、戦 争に 地 震にと 、人々にとって 大変苦しい時代でした。 知 多 市彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表 知 私たちの住むまち 多 市の今 19 STORY of CHITA 30 30 34 55 36 30 40 30 45 市制施行パレード 市長(左)と議長(右)を先頭に、市制施行を祝 う鼓笛隊パレードが行われました。 進む埋め立て(昭和38年ごろ) 北から沿岸部を写したものです。手前 の八幡、新知の浜は埋め立てが進みま したが、奥の日長の浜ではまだ海苔養殖 が続けられています。 デジタル写真館 ~知多の記憶~ 歴史民俗博物館が収蔵する古い写真を 中心に紹介しています。 (http://jmapps.ne.jp/chitaaichi2/)
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