知多 市になるまで 江 戸時代 、知多半島は尾張藩による支配を受け、 知 多 市 域の の村ではそれぞれに庄 屋 、組 頭 、頭 百 姓 が おかれていまし た 。寛文 年 間( 1 6 72年 前 後 )に 書 かれ た 、村 々の 様 子 を 記録し た『 寛 文 村 々覚 書 』によ る と 、当 時 カ 村 合 計 で 家 屋 数 約 1 75 0戸 、約 1万 人の 村 人 が 住 んでお り 、その う ちの 大 半 は 農 民 だったよ うです。お 米を 中 心に麦や 野 菜 、豆 類の生 産 や 、綿の 栽 培 、海 に 面し た 村 では 魚やエ ビ 、カニな ど を捕る漁業も行われていました。 農 民たちは田 畑に対してかけられた 年 貢な どの税 を 納 め る 必 要 が あった た め 、楽 な 暮 らし はでき ま せ ん。そこで田 畑の仕 事 がない時 期の出 稼 ぎや、 家 庭 内 での 副 業 も 盛 んでし た 。黒 鍬 稼 ぎ は 代 表 的 な 出 稼 ぎ で、尾 張 藩 内のみならず信 州や大 坂 、関 東 地 方な ど 各 地で田 畑の 開 墾 や た め 池 づく り 、道 路 工 事 ど を 行 いました。 現 在の 尾 張 万 歳につな が る 万 歳 稼 ぎでは 、正 月に 万 歳 師が 家々を 回って万 歳を 演じ 、収 入を 得 ました 。 また 、家 内では女 性による 機 織り が行われ、家 族の着 物を 織るほか 、買い取ってもら うための布 も 織 り 、生 活の足しにしていました 。この布は 、木 綿 仲 買 人 が 知 多木綿として集め、船で 江戸まで運ばれました。 このよ う な 暮 らしの 中 、豊 作 や 農 作 物のた めの 雨 を 祈ったり 、先 祖を 供養したりするお 祭りは、村 人た ち の 楽 し み で も あ り ま し た。神 馬 や 山 車 、獅 子 舞 な ど 、村々でさ ま ざ まな 形の行事 が 行われ 、そのうちの 一部 は 朝 倉の 梯 子 獅 子 や 日 長の御 馬 頭 、岡 田 春 まつ りのよ うに 伝 統 文 化 として 現 在 も 引き 継 がれ 、親し まれています。 鉄 道の開通 明 治 ( 19 1 2) 年 、 愛 知 電 気 鉄 道( 現・名 古 屋鉄 道 株 式 会 社 )により 、知 多半 島で初めての電気 鉄 道 が 伝 馬 町 から大 野 間で開 通し ま す。 こ れによ り 交 通や 貨 物 輸 送 が 向 上し 、併せて鉄 道が 沿 岸 部を 走 ること から海水浴場の整備が進められました。 兵 庫 県の舞 子 浜と 風 景 が 似ていることから 名付け ら れ た 新 舞 子には 、大 正 時 代 までに 海 水浴 場の 休憩 所や旅 館 、別 荘 地 、当 時としては珍しい夜間 照 明 付き のテニスコートなど が 整 備 さ れ まし た 。 昭 和 2( 1 9 27) 年 に は 新 た に 長 浦 海 水 浴 場 れ 、そ の 他 、古 見 や 日 長 に も 海 水 浴 場 があ り 、知 多 市 域 沿 岸 部 は 鉄 道 よ る 交 通 と 海 水 浴 を 中 心とした一大 リゾー ト 地 と し て 発 展 し ました。 明 治・大 正・昭 和時 代 村の合併 明 治 維 新によ る 近 代化 は 、日 本国 内に 多くの 変 化 を も たらし ました 。明 治4 ( 1 8 71) 年の 廃 藩置 県 では 知 多 市 域 は 額田 県に 所属し 、5 ( 1 8 72) 年に 合併によって愛知県となります 。江戸 時代に あった 村は、合 併によって明 治 ( 1 9 0 6) 年には八幡 村・ 岡田町・旭村の3町村にな りました。 江 戸 時 代 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 送一札 古見村の庄屋から佐布里村の庄屋宛に送られた、嫁入り をする女性の身元を明らかにした文書で、現在の住民票の ようなものです。当時禁止されていたキリスト教徒(切子 丹)ではないことが証明されています。 16 16 16 岡田春まつりの様子 岡田村は慶長11(1606)年に奥村、中村、里村が合併して誕生 しました。安永年間(1775年頃)から3台の山車が飾られるように なったといわれています。 道路工事(明治40年ごろ) 知多の黒鍬衆は道路工事や治水、開墾を得意と していました。使用される「黒鍬」は普通の鍬よりも 重く大きく、土木工事に最適な道具でした。
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