知 多市になるまで 海 岸 に 近い場 所の 畑 な ど に 、長 さ㎝ く らいの 棒 状の 土 器 が 落 ちている こ と が あ り ま す 。こ れ は も と も と は 器の 下 棒 状の 脚 が 付 く 形の 土 器で 、砂 浜 に 脚 を 突 き 刺して、周 りで火 を 焚 き な がら 海 水 を 煮 詰 めて塩を作った、 製塩土器と呼ばれる土器です。 この形の製 塩土 使われていた 奈 良 時 代に都 が お かれていた 奈 良 県の 平 城 宮 か ら 、大 量の 木 簡 が 発 見 されていま す 。その 中には 、このあ た りから 天平 元 ( 7 29) 年に塩が調( 当 時の税 制 度の内 、地 方の特 産 品 を 納 め る もの )とし て 納 めら れ た こ と が 記 さ れ て い る も の が あ り ま す 。 「 1 30 0年 前に 朝 倉に 住んでいた 和 尓 部 氏 が 、税 金 として地 元で作った 塩を 送った 」こと が分かる 、知 多 市域に関する最も古い文字資料です。 古 墳 時 代 知 多 市 内で見つかっている 古 墳 は 、寺 山 古 墳( 南 粕 谷 )、 椿 古 墳( 新 知 )、 岩 之 脇 古 墳(八幡 )の3 基で、 いずれも 小さな 円 墳です。寺 山 古 墳は 直 径 約m、 高 さは 約2mあ り、 大 き な 石 を 組 ん だ 石 室 が 地 中 に残っています。 椿古 墳は大正時代には副葬品の須 恵 器 が出土したと 言われ、現 在も 崩れた石 室の一部 が見られます。 下 内 橋 遺 跡(寺 本 新 町 )で は 、古 墳 その も の は 見 つ か っ て い ま せ ん が 、発 掘 調 査で埴 輪 が 出 土 し てお り 、埴 輪 を 並べ た 古 墳 存 在 し て い た 可 能 性 が あ り ま す 。ま た 、法 海 寺 遺 跡( 八幡 )な ど 古 墳 時 代 の 遺 物 が 出 土 す る 遺 跡 も 各 地 に あ り 、その よ う な 場 所で 生 活していた 人々の中でも 有 力 な 人 物 の お 墓 と し て 古 墳 を 築 い た と 考 え られます。 中 世 古 代 平 安時 代 後 半の 世 紀 ごろ 、知 多 半 島で焼 き 物の 生産 が始まりました 。丘 陵 部に窯 が築かれ、ここで作 られた 壷や 甕は 船を 使って伊 勢 湾から 全 国 各 地へ運 ばれました 。また 茶 碗やお皿な どの食 器 類も 作られ、 主に 地 元で 消 費 され まし た 。知 多 半 島 全 域に 広 がっ ていた 焼 き 物 作 り は 、 室 町 時 代にな る と 現 在の 常 滑 市の一部に集中するようになり、 常滑 焼として引き継 がれていきます。 室 町 時 代の 初 め 頃 、知 多 市域 周 辺 を 治 めていたの は一色 氏で、慈 雲 寺( 岡 田 )の 創建 や 大 興 寺( 大 興 寺 ) の 再 興 、大 野 城( 常 滑 市 大 野 )の 築城 な ど を 行ってい ます。戦 国 時 代に一色 氏 が 衰 退すると、知 多 市 域 北 部 は 寺 本 城 主の 花 井 氏 が 、南 部 は 城 主の佐 治 氏 が 勢 力 を 強 め ま す が 、桶 狭 間の 戦いで今 川 義 元が 織 田 信 長に討たれた 後は 織 田の勢 力 下におかれることに なりました。 大 草 城( 大 草 )は 、安 土 桃 山 時 代に 織 田 信 長の 歳 下 の 弟 、織 田 長 益 に よって 築 か れ た 城です 。知 多 を 支 配 する た めに が 新 たに 城 を 始 め 、土 塁 と 堀 で 周 囲 を 囲った 本 丸 と 二の 丸 や 、その 外 側の 外 堀 を 備えた三の丸を 造りました が、完 成を 前に中 断し 、未 完の 城 と な り まし 。現 在 本 丸 と 二の 丸の 大 部 分 が 大 草 公 園 として整 備 さ れ 、土 塁 や 堀 を 見 学 する こ とができます。 尾張国智多郡贄代郷朝倉里戸主和尓部色夫智調塩三斗 天平元年 知多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知多市の今 わにべ 七曲古窯A3号窯 焼き物を焼くために山の斜面にトンネル状に 掘った窯跡は、知多市内でこれまで100基以上 が見つかっており、消滅したものや未発見のもの を合わせると数百基の窯が築かれたと考えられ ます。この七曲A3号窯は、天井は削られてなく なっていますが、窯の床が全面残っていました。 15 STORY of CHITA 12 13 寺本城 天文23(1554)年の村木砦の戦いの際、花井氏 は今川軍に協力しました。そのため、戦いに勝利し た織田軍は帰り道に寺本に立ち寄り、城下を焼き 払っていったそうです。 大草城二の丸 江戸時代に尾張藩家老の山澄家が大草城の隣に屋敷 を築き、城址を保護しました。現在も大草公園内には 400年以上前の遺構が残っています。
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