知多市のあゆみ 2025 STORY of CH I TA
発刊に寄 せて 本 年 、知 多 市 は 市制 施 行 周 年 と い う 記 念 す べき 年 を 迎 え ま し た 。昭 和 年 9月 1日 の 市 制 施 行 以 来 、産 業 と の 調 和を 図 り な が ら 活 力 と 潤 い にあ ふ れ る「 緑 園 都 市 」と し て 着 実 に 成 長 を 遂げ て ま い り ま し た 。こ 間 、 市 民 の 皆 さ ま を は じ め 、地 域 の 発 展 に ご 尽 力 を い た だ き ま し た 全 て の 方々 に 心 か ら 感 謝 申 し 上 げ ま す 。 本 市 は 、先 人 た ち の ご 努 力 の かい あ っ て 緑 豊 か な 自 然 に 恵ま れ 、自 然 と 都 市 機 能 と の バ ラ ン ス の 取 れ た 快 適 で 暮 ら や す い 生 活 環 境が 整 っ て お り ま す 。ま た、長 年 受 け 継 が れ る 素 晴 ら し い 伝 統 や 文 化 、活 発 な コ ミ ュ ニ テ ィ 活 動 や 地域 課 題 の 解 決 に 取 り 組 む NPO活 動 な ど 市 民 協 働 に よ る ま ち づ く り が 行 わ れ て き 。こ う し た長 年 に わ た り 築 き 上 げ て こら た「 知 多 市 ら し さ 」は 、 本 市 発 展 大 き な 原 動 力 で あ る と と も に 、今 もな お 変 わ る こ と の な 大切 な 魅 力 で あ り ま す 。 本 冊子 で は 、市 制 施 か ら の 年 間 の発 展 の 軌 跡 を 振 り 返 り 、本 市 が 歩 ん で き た 歴史 と 、そ の 中 で 培 わ れて き た 未 来 に つ げ て た い「 知 多 市 ら しさ 」を 記 録 し て い ま す 。こ の 冊 子 を 通 じ て 、 知 多 市 の 魅 力を 再 発 見 し 、愛 着 と 誇 を 深 め て た だ く とと も 、未 来 へ 新 た な 一歩 を 踏 み 出 す き っ か け と なれ ば 幸 い で す 。 今 後 も「 あ た ら しく 、知 多 ら し く 。」 を 合 言 葉 に 、市 民 の 皆 さ まが 生 き 生 き と 輝 き 、夢 に向 か っ て チ ャ レ ン ジ で き る ま ち づく り を 進 め て ま い り ま す の で ご 支 援・ご 協 力を 賜 り ま す よ う お 願 い 申 し 上 げ ま す 。 知 多 市 長
知多市のあゆみ 2025 STORY of CH I TA
発刊に寄 せて 本 年 、知 多 市 は 市制 施 行 周 年 と い う 記 念 す べき 年 を 迎 え ま し た 。昭 和 年 9月 1日 の 市 制 施 行 以 来 、産 業 と の 調 和を 図 り な が ら 活 力 と 潤 い にあ ふ れ る「 緑 園 都 市 」と し て 着 実 に 成 長 を 遂げ て ま い り ま し た 。こ 間 、 市 民 の 皆 さ ま を は じ め 、地 域 の 発 展 に ご 尽 力 を い た だ き ま し た 全 て の 方々 に 心 か ら 感 謝 申 し 上 げ ま す 。 本 市 は 、先 人 た ち の ご 努 力 の かい あ っ て 緑 豊 か な 自 然 に 恵ま れ 、自 然 と 都 市 機 能 と の バ ラ ン ス の 取 れ た 快 適 で 暮 ら や す い 生 活 環 境が 整 っ て お り ま す 。ま た、長 年 受 け 継 が れ る 素 晴 ら し い 伝 統 や 文 化 、活 発 な コ ミ ュ ニ テ ィ 活 動 や 地域 課 題 の 解 決 に 取 り 組 む NPO活 動 な ど 市 民 協 働 に よ る ま ち づ く り が 行 わ れ て き 。こ う し た長 年 に わ た り 築 き 上 げ て こら た「 知 多 市 ら し さ 」は 、 本 市 発 展 大 き な 原 動 力 で あ る と と も に 、今 もな お 変 わ る こ と の な 大切 な 魅 力 で あ り ま す 。 本 冊子 で は 、市 制 施 か ら の 年 間 の発 展 の 軌 跡 を 振 り 返 り 、本 市 が 歩 ん で き た 歴史 と 、そ の 中 で 培 わ れて き た 未 来 に つ げ て た い「 知 多 市 ら しさ 」を 記 録 し て い ま す 。こ の 冊 子 を 通 じ て 、 知 多 市 の 魅 力を 再 発 見 し 、愛 着 と 誇 を 深 め て た だ く とと も 、未 来 へ 新 た な 一歩 を 踏 み 出 す き っ か け と なれ ば 幸 い で す 。 今 後 も「 あ た ら しく 、知 多 ら し く 。」 を 合 言 葉 に 、市 民 の 皆 さ まが 生 き 生 き と 輝 き 、夢 に向 か っ て チ ャ レ ン ジ で き る ま ち づく り を 進 め て ま い り ま す の で ご 支 援・ご 協 力を 賜 り ま す よ う お 願 い 申 し 上 げ ま す 。 知 多 市 長
発刊に寄 せて 本 年 、知 多市 は 市 制 施 行 周 年 と い う 記念 す べ き 年 を 迎 え ま し た 。昭 和 年 9月 1日 の 市制 施 行 以 来 、産 業 との 調 和 を 図 り な が ら 活 力 と 潤 い に あ ふ れ る「 緑 園 都 市 」と し て 着 実 に 成 長 を 遂 げ て ま い り ま し た 。こ の間 、市 民 の 皆 さ ま を は じ め 、地 域 の 発 展 に ご 尽 力 を い た だ き ま し た 全 て の 方 々 に 心 か ら 感 謝 申 し 上 げま す 。 本 市 は 、先 人 た ち の ご 努力 の か い あ っ て 緑 豊 か な 自 然 に 恵 ま れ 、自 然 と 都 市 機 能 と の バ ラ ン ス の 取 れ た 快 適 で 暮 ら や す い 生活 環 境 が 整 っ て お り ま す 。ま た 、長 年 受 け 継 が れ る 素 晴 ら し い 伝 統 や 文 化 、活 発 な コ ミ ュ ニ テ ィ 活動 や 地 域 課 題 の 解 決 に 取 り 組 む NPO活 動 な ど 市 民 協 働 に よ る ま ち づ く り が 行 わ れ て き 。こ う し た 長 年 に わ た り 築 き 上 げ て こ ら た「 知 多 市 ら し さ 」は 、 本 市 発 展 大 き な 原 動 力 で あ る と と も に、今 も な お 変 わ る こ と の な 大 切 な 魅 力 で あ り ま す 。 本 冊 子 で は 、市 制 施 か ら の 年 間 の 発 展 の 軌 跡 を 振 り 返 り 、本 市 が 歩 ん でき た 歴 史 と 、そ の 中 で 培 わ れ て き た 未 来 に つ げ て た い「 知 多 市ら し さ 」を 記 録 し て い ま す 。こ の 冊 子 を 通 じ て 、 知 多 市 の 魅 力 を 再 発 見 し 、愛 着 と 誇 を 深 め て ただ く と と も 、未 来 へ 新 た な 一 歩 を 踏 み 出 す き っ か け と な れ ば 幸 い で す 。 今後 も「 あ た ら し く 、知 多 ら し く 。」 を 合 言 葉 に 、市 民 の皆 さ ま が 生 き 生 き と 輝 き 、夢 に 向 か っ て チ ャ レン ジ で き る ま ち づ く り を 進 め て ま い り ま す の で ご 支 援・ ご 協 力 を 賜 り ま す よ う お 願 い 申 し 上 げ ま す 。 知 多 市 長 55 45 55 3
目 次 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 発 刊に寄せて 目 次 目次 知多 市彩 景 知 多市になる まで 誰にでもやさしいまちづ くり 教 育と 健 康づくり コミュニテ ィの形 成と 市 民活 動の活 性 化 知 多の成り立ち / 旧石器 時代 / 縄文 時 代/ 弥 生時 代 / 古 墳 時代 /古 代/ 中 世/ 江 戸時 代 /明 治・大 正・昭 和 時代 人口の急増と市 民の暮らし 知 多 市のあゆみ 全 体のあゆみ 知 多 市の誕 生 臨 海 部の造 成と 企 業進 出 私たちの住むまち 知 多 市の今 年 表 産 業 まちなみ 安 全とあんしん 緑 豊かなまち 福 祉と健 康 ひとづくり 子 スポーツ育とて文 化 分野 別のあゆみ 編集 関係 者名 簿 文 化 財 統計 データ 市 制 施 行年( 1 9 70年) との比較 第6 次 総合 計 画の策 定/ あたらしく、知多らしく 。梅 香る わたしたちの緑 園 都市 / まちづくりの基 本的な 考え方 /基 本 目標1ひとづくり/ 基本目標2あんしんづくり/基本目標3にぎわ いづくり/ 未来へ向けて 産 業の発 展と環 境 問題 安 全 安心なまちづくり 新 舞子マリンパー ク / 佐布 里 梅と 佐 布里 池 梅林 / 岡田の街並み /ようこそ知多へ ㈱ IH I のゴライアスクレーン / グリ ーンベルト /つつじ が丘 4 CONTENTS 6 4 3 27 26 25 24 23 8 7 6 5 4 12 22 3 1 21 20 20 20 2 1 2 3 4 5 8 7 6 70 64 58 52 46 40 34 28 28
目 次 知多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知多市の今 発 刊に寄せて 目 次 目 次 知多 市 彩 景 知 多 市になるまで 誰にでもやさしいまちづ くり 教 育と健コ 康ミ づュくニ りティの形 成と 市 民 活動の活 性化 知多の成り立ち /旧石 器時 代 /縄 文 時代 / 弥生 時 代/ 古 墳 時代 / 古代 / 中世 / 江戸 時 代/ 明 治・大 正・昭 和 時 代 人口の急 増と 市 民の暮らし 知 多 市のあゆみ 全 体のあゆみ 知 多市の誕生 臨 海 部の造 成と 企 業進 出 私たちの住む まち 知多 市の今 年 表 産 まちなみ 安 業 全とあんしん 緑 豊かなまち 福 祉と 健 康 子ひとづくり 育て スポーツと 文 化 分 野別のあゆみ 編 集 関 係者 名 簿 文 化 財 統計 データ 市制 施 行年 ( 19 7 0年) との比 較 第6 次総 合 計画の策定 / あたらしく、知 多らしく。 梅 香る わたしたちの緑 園都 市 / まちづくりの基 本 的な 考え方 / 基本 目 標1 ひとづくり/ 基本目標2あんしんづくり/基本目標3にぎわ いづくり/ 未 来へ向けて 産 業の発 展と 環 境 問題 安 全 安 心なまちづくり 新 舞 子マリンパ ーク / 佐 布里 梅と佐 布 里 池 梅 林 / 岡田の街並み /ようこそ知多へ ㈱ IH I のゴライアスクレ ーン / グリーンベ ルト /つつじ が丘 STORY of CHITA 5 94 76 86 88 100 市の花 ツツジ PROFILE 湳㛡䄫 市の木 ヤマモモ 市の花 ウメ ☔ ┩ 䅮 丗 ꪫ 犉 : 82,797人 : 37,456世帯 : 45.90k㎡ (令和7年4月1日時点) プロフィール 岐阜県 長野県 静岡県 三重県 愛知県 知多市 ▲市公式ホームページ
6 1 14 15 16 12 ) 海水浴客でにぎわうブルーサンビーチ 新舞子保育園の園児がアカウミガメの子ガメ85匹 を放流 夕日で赤く染まった新舞子の海 知多 市彩 景 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 新舞 子マリンパー ク 新 舞 子 マ リ ン パ ーク は 、名 古 屋 港 最 南 端 の 人 工 島 で あ る 南 5 区 の 一 部 を 整 備 し 、海 洋 性 レ ク リ エ ーシ ョ ン の 拠 点 と し て 平 成 9 年 4 月 に オ ー プ ン し ま し た 。 昔 か ら 名 古 屋 市 近 く の 海水 浴 場 と し て 親 ま れ て き た 新 舞 子 海 岸 の 対 岸 に 位 置 し 、海 水 浴 に と ど ま ら ず 、 マ リ ン ス ポ ー ツ や 海 釣 り の ほ か 、ピ ク ニ ッ ク や ド ッ グラン、バーベキューなども楽しめる場所となっています。 年 6 月 に ア カ ウ ミ ガ メ が ブ ル ー サン ビ ー チ を 訪 れ 、産 卵 し た こ と が 話 題 と な り ま し た 。卵 は 港 水 族 館 の 人工 ふ 化 場 で 育 て ら 、誕 生 し た ア カ ウ ミ ガ メ は 再 び ブ ル ー サ ン ビ ー チ に 放 流 さ れま し た 。ア カ ウ ミ ガ メ が 産 卵 し た こ と を記念して、 年9 月にウミガメのモニュメントを設置しました。 年月 に 設 置 さ れ た 風 力 発 電 用 の 巨 大 な 風 車 2 基 がラ ン ド マ ー ク と な っ て い る ほ か 、伊 勢 湾 を 航 行 す る 大 型 船 、中 部 国 際空 港 ( セ ン ト レ ア を 離 発 着 す る 飛 行 機 、鈴 鹿 山 系 へ 沈 む 夕 日 な ど の 眺 望 を 楽 し み に 訪 れ る 人 が 数 多 く い ま す。 佐 布里 梅と 佐布 里 池 梅 林 佐 布 里 梅 は 、 2 月 末か ら 3 月 上旬 に かけ て 豊 か な 香 り を 漂 わ せ な が ら 薄 紅 色 の 花 を 咲 か せ 、6月 上 旬 には 果 肉 の厚 い た くさ ん の 実 が な る の が 特 徴 で す 。令 和元年 月に市の天然記念物に指定されています。 佐 布 里 梅 の 由 来 は 、 明 治 の 初期 に 佐 布里 地 区 に住 む 鰐 部 亀 蔵 氏 が 桃 の 木 に 梅 を 接 ぎ 木 し て 増 や し て い った こ と によ る と され て い ます 。明 治 の 後 期 に は 、現 金 収 入 も 多 い こ と か ら 競 っ て佐 布 里 梅が 植 え られ 、梅 林が 形 成 さ れ ま し た 。大 正 か ら 昭 和 の 初 期 に け 、愛 知電 鉄( 現・名 古 屋鉄 道 株 式会 社 )が 観 光 地 と し て 「 佐 布 里 梅 林 」を 宣 伝 し た た め 、多く の 観梅 客 が 訪 れる と とも に 、茶 店 や 売 店 が 出店し、大変なにぎわいを見せました。 梅林は、昭和 年の伊勢湾台風をはじめとした自然災害、佐布里 ダム建設な ど に よ り 多 く が 池 の 底 に 沈 み 、戦 後 一 時 衰 退 しま し た。 年 に 佐 布 里 池 の 工 事 が 竣工すると、愛知県や地元の人々の熱意により、 佐布里梅などが植樹されて梅林 が復活しました。また、 平成 年の佐布里緑と花のふ れあい公園の開園を機に佐 布里梅が植えられ、今では愛知県内一を誇る 種類、約 6 0 0本の梅林として 親しまれています。
7 STORY of CHITA 2 10 34 40 13 25 着物姿で観梅を楽しむ女性たち 佐布里池造成工事 平成4年に開催された第1回梅まつり 知 多市 彩 景 知多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知多市の今 新 舞 子マリンパー ク 新 舞 子 マ リ ン パ ー ク は 、名 古 屋 港 最 南 端 の 人 工 島 で あ る 南 5 区 の 一 部 を 整 備 し 、 海 洋 性 レ ク リ エ シ ョ ン の 拠 点 と し て 平 成 9 年 4 月 に オ ー プ ン し ま し た 。 昔 か ら名 古 屋 市 近 く の 海 水 浴 場 と し て 親 ま れ て き た 新 舞 子 海 岸 の 対 岸 に 位 置 し 、海水 浴 に と ど ま ら ず 、マ リ ン ス ポ ー ツ や 海 釣 り の ほ か 、ピ ク ニ ッ ク や ド ッ グラン、バーベキューなども楽しめる場所となっています。 年 6 月 に ア カ ウミ ガ メ が ブ ル ー サ ン ビ ー チ を 訪 れ 、産 卵 し た こ と が 話 題 と な り ま し た 。卵 は名 港 水 族 館 の 人 工 ふ 化 場 で 育 て ら 、誕 生 し た ア カ ウ ミ ガ メ は 再 び ブ ル ー サ ンビ ー チ に 放 流 さ れ ま し た 。ア カ ウ ミ ガ メ が 産 卵 し た こ と を記念して、 年9 月にウミガメのモニュメントを設置しました。 年月 に 設 置 さ れ た 風 力 発 電 用の 巨 大 な 風 車 2 基 が ラ ン ド マ ー ク と な っ て い る ほ か 、伊 勢 湾 を 航 行 す る大 型 船 、中 部 国 際 空 港 ( セ ン ト レ ア を 離 発 着 す る 飛 行 機 、鈴 鹿 山 系 へ 沈 む 夕 日 など の 眺 望 を 楽 し み に 訪 れ る 人 が 数 多 く い ま す。 佐 布 里 梅と 佐 布 里 池 梅 林 佐 布 里 梅 は 、2 月 末 か ら 3 月 上 旬 に か け て 豊 か な 香 り を 漂 わ せ な が ら 薄 紅 色 の 花 を 咲 か せ 、6 月 上 旬 に は 果 肉 の 厚 い た く さ ん の 実 が な る の が 特 徴 で す 。令 和元年 月に市の天然記念物に指定されています。 佐 布 里 梅 の 由 来 は 、明 治 の 初 期 に 佐 布 里 地 区 に 住 む 鰐 部 亀 蔵 氏 が 桃 の 木 に 梅 を 接 ぎ 木 し て 増 や し て い っ た こ と よ る と さ れ て い ま す 。明 治 の 後 期 に は 、現 金 収 入 も 多 い こ と か ら 競 っ て 佐 布 里 梅 が 植 え ら 、梅 林 が 形 成 さ れ ま し た 。大 正 か ら 昭 和 の 初 期 に け 、愛 知 電 鉄( 現・名 古 屋 鉄 道 株 式 会 社 )が 観 光 地 と し て 「 佐 布 里 梅 林 」を 宣 伝 し た た め 、多 く の 観 梅 客 が 訪 れ る と と も に 、茶 店 や 売 店 が 出店し、大変なにぎわいを見せました。 梅林は、昭和 年の伊勢湾台風をはじめとした自然災害、佐布里ダム建設な ど に よ り 多 く が 池 の 底 に 沈 み 、戦 後 一 時 衰 退 し ま し た 。 年 に 佐 布 里 池 の 工 事 が 竣工すると、愛知県や地元の人々の熱意により、 佐布里梅などが植樹されて梅林 が復活しました。また、 平成 年の佐布里緑と花のふ れあい公園の開園を機に佐 布里梅が植えられ、今では愛知県内一を誇る 種類、約 6 0 00本の梅林として 親しまれています。
8 3 35 16 10 今も趣のある風景が残る岡田の街並み 岡田春まつりで集う3台の山車と梶人たち 知多 市彩 景 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 岡田 の 街 並 み 江 戸 時 代 か ら「 知 多 木 綿 」の 特 産 地 と し て 栄 え た 岡 田 地 区 に は 、江 戸 か ら 明 治 時代の土蔵や黒坂塀など、趣のある風景が今も残ります。 大 正 初 期 に 建 て ら れた 木 綿 蔵 を 活 用 し た「 木 綿 蔵・ち 」で は 、伝 統 的 な 手 織 り を 体 験 す る こ と が で き 、 と 手 織 り の 技 術 を 伝 て い ま す 。ま た 、 明 治 年に建てられた知多岡田簡易郵便局は、愛知県内でも最古級の局舎で、 現在も 簡易郵便局として使われています。 岡田春まつりは、本祭が4月 日に近い日曜日に行われ、前日の夜 に試楽が 行 わ れ ま す 。祭 り の 起 源 は 定 か で は あ り ま せ ん が 、3 台 の 山 車 の う ち 中 組( 岡 田 二 区 )の 山 に 天 保 年 の 作 と 書 か れ て い ま す 。古 い 史 料 に よ る と 元 禄 2 年 す で に 山 車 が あ っ た と さ れ て お 、さ ら にさ か の ぼ る 可 能 性 が ます。 3 台 の山 車 は 、そ れ ぞ れ 里 組 が「 日 車」 、中 組 が「 雨 車 」、 奥 風 車 」 と 呼 ば れ 、毎 年 持 ち 回 り で 先 導 役を 務 め 「 先 車 」の と き に 多い 天 候 を 表 し て い る と い わ れ て いま す 。ま た 、そ れ ぞ れ が 特 色あ る 木 偶 を 有 し て お 、上 山 で 演じ ら れ る 上 木 偶( か ら く り 人 形)と 前 台 で 演 じ ら る 下 木 偶(あ や つ り 人 形 )が 祭 の 見 物 客 を楽 し ま せ て く れ ます。 ようこそ知多へ ㈱ IH Iのゴラ イアスクレーン 株 式 会 社 I H I愛 知工 場 は 、昭 和 年 に 名 古 屋 南 部臨 海工 業 地 帯 の 北 浜町 で 操 業 を 開 始 し ま し た 。国 内 最大 級の「 1 0 0 万t ド ッ ク」を 備 え た 最 新 鋭 の 造 船 所 と し て 、大 型 の 石油・ L N G タ ン カ ー や 「 東京 湾 ア ク ア ラ イ ン 」の ト ン ネ ル 工 事 に 使 わ れ た 掘 削 機 、 大 型 海洋 プ ラ ト な どを 生産 し 、日 本 の 経 済 成 長 支 え ました。 日 本 の 造 船 業 は 、昭 和 年 代 後 半 に は 世 界 シ ェ ア の % を 超 え ま し た が 、韓 国 や 中 国 が 台 頭 劣 勢 を 強 いら れ るよ う に な り 、平成 年 に は 愛 知 工 場 は 閉 鎖されることとなりました。 愛 知 工 場 の 2 基 の ゴ ラ イ ア ス ク レ ー ン は 大 型 門 型 ク レ ー ン で 、数 百t も の 重 量 物 を 吊 り 上 げ る こ と が で き 、 造 船 所 の 象 徴 的 な 存 在 で し た 。名 古 屋 港 や 中 部 際 空 港 、鉄 道 、高 速 道 路 な ど 、ど こ か ら で も 目 立 つ 本 市 の ラ ン ド マ ー ク と し て 多 く の 市 民 に 親 し ま れ て き ま し た が 、惜 し ま れ つ つ 令 和 2 年 に 撤 去 されました。 でく
知 多市 彩 景 知多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知多市の今 岡 田の 街 並 み 江 戸 時 代 か ら「 知 多 木 綿 」の 特 産 地 と し て 栄 え た 岡 田 地 区 に は 、江 戸 か ら 明 治 時代の土蔵や黒坂塀など、趣のある風景が今も残ります。 大 正 初 期 に 建 て ら れ た 木 綿 蔵 を 活 用 し た「 木 綿 蔵・ち 」で は 、伝 統 的 な 手 織 り を 体 験 す る こ と が で き 、知 と 手 織 り の 技 術 を 伝 て い ま す 。ま た 、 明 治 年に建てられた知多岡田簡易郵便局は、愛知県内でも最古級の局舎で、 現在も 簡易郵便局として使われています。 岡田春まつりは、本祭が4月 日に近い日曜日に行われ、前日の夜に試楽が 行 わ れ ま す 。祭 り の 起 源 は 定 か で は あ り ま せ ん が 、3 台 の 山 車 の う ち 中 組( 岡 田 二 区 )の 山 に 天 保 年 の 作 と 書 か れ て い ま す 。古 い 史 料 に よ る と 元 禄 2 年 す で に 山 車 が あ っ た と さ れ て お 、さ ら に さ か の ぼ る 可 能 性 が ます。 3 台 の 山 車 は 、そ れ ぞ れ 里 組 が「 日 車 」、 中 組 が「 雨 車 」、 奥 風 」と 呼 ば れ 、毎 年 持 ち 回 り で 先 導 役 を 務 め 「 先 車 」の と き に 多 い 天 候 を 表 し て い る と い わ れ て い ま す 。ま た 、そ れ ぞ れ が 特 色 あ る 木 偶 を 有 し て お 、上 山 で 演 じ ら れ る 上 木 偶( か ら く り 人 形 )と 前 台 で 演 じ ら る 下 木 偶( あ や つ り 人 形 )が 祭 の 見 物 客 を 楽 し ま せ て く れ ます。 よ うこそ知 多へ ㈱ IH Iのゴラ イアスクレーン 株 式 会 社 I H I 愛 知 工 場 は 、昭 和 年 に 名 古 屋 南 部 臨 海 工 業 地 帯 の 北 浜 町 で 操 業 を 開 始 し ま し た 。国 内 最 大 級 の「 1 0 0 万t ド ッ ク 」を 備 え た 最 新 鋭 の 造 船 所 と し て 、大 型 の 石 油・L N G タ ン カ ー や「 東 京 湾 ア ク ア ラ イ ン 」の ト ン ネ ル 工 事 に 使 わ れ た 掘 削 機 、大 型 海 洋 プ ラ ト な ど を 生 産 し 、日 本 の 経 済 成 長 支 え ました。 日 本 の 造 船 業 は 、昭 和 年 代 後 半 に は 世 界 シ ェ ア の % を 超 え ま し た が 、韓 国 や 中 国 が 台 頭 劣 勢 を 強 い ら れ る よ う に な り 、平 成 年 に は 愛 知 工 場 は 閉 鎖されることとなりました。 愛 知 工 場 の 2 基 の ゴ ラ イ ア ス ク レ ー ン は 大 型 門 型 ク レ ー ン で 、数 百t も の 重 量 物 を 吊 り 上 げ る こ と が で き 、 造 船 所 の 象 徴 的 な 存 在 で し た 。名 古 屋 港 や 中 部 際 空 港 、鉄 道 、高 速 道 路 な ど 、ど こ か ら で も 目 立 つ 本 市 の ラ ン ド マ ー ク と し て 多 く の 市 民 に 親 し ま れ て き ま し た が 、惜 しま れ つ つ 令 和 2 年 に 撤 去 されました。 でく 9 STORY of CHITA 4 48 40 50 30 本市のランドマークとしてたくさんの人を出迎えてきた愛知工場のゴライアスクレーン 上空から見た㈱IHI愛知工場
10 5 40 50 上空から見たグリーンベルトと臨海工業地帯 さまざまな生物とともに暮らせる自然環境の大切さを考える自然調査隊 知多 市彩 景 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 グリ ーンベルト つつじ が 丘 グ リ ー ン ベ ル ト とは 、住 宅 地 と 工 業 地 帯 を 分 離 す る た め に 設 置 し た 緑 地 帯 の ことです。本市では、 埋め立て造成された臨海工業地帯に昭和 年代から進出 し た 企 業 に 対 し 、西 知 多 産業 道 路 沿 い に 常 緑 樹 の 植 栽 を 義 務 付 け ま し た 。そ の 広 さは幅約 10 0m、 長さ 6㎞に及びます。 住 宅 地 と 工 業 地 帯 を 分 離 し 、 大 気 汚 染 、騒 音 な ど 環 境 問 題 の 発 生 を 抑 制 す る こ と を 目 的 と し た 人 工 の 森 で した が 、樹 木 の 成 長 に よ り 見 事 な 自 然 の 森 と な り、緑園都市を標榜する本市のシンボルとなりました。 企 業 の 丁 寧 な 維 持 管 理 に よ り 年 以 上 育 ま れ た 森 に は さ ま ざ ま な 生 物 や 植 物 が 生 息 し 、現 在 で は 貴 重 な 工 地 帯 に お け る 生 態 系 を 形 成 す る 場 所 に も な っ て い ま す 。 N P O・大 学・企 業・自 治 体 など が 協 働 す る 知 多 半 島 生 態 系 ネッ ト ワ ー ク 協 議 会 の 活 動 拠 点と な っ て い ほ か 、 本 市 と 企 業が 協 働 し て 生 物 や 植 物 を 観 察 する 「 自 然 調 査 隊 」を 開 催 す る など 、自 環 境 や 生 物 多 様 性 に つい て 学 び 、考 え る 場 と な っ て いま す。 市 制 施 行 時 に施 工 され た 朝 倉 土地 区 画整 理 事 業 で は 、旧 日 本 住 宅 公 団 に よ り 約 0・ ㎢が 開 発 さ れ 、昭 和 年 3 月 に つ つ じ が 丘 1 〜 4 丁 目 が 誕 生 し ま し た 。 つ つ じ が 丘 団 地 に は賃 貸 、分 譲 を 含 む中 高 層 の集 合 住 宅 の 他 、一 戸 建 て の 分 譲 住 宅 、民 間 換 地 の 住 宅も 合 わ せ、最 終 的に 約 3 18 0 戸 が 建 築 さ れ ま し た 。そ こ に昭和 年以降約9 00 0人が入居し、 本市の人口急増の象徴でもありました。 つ つ じ が 丘 に あ る 朝 倉 団 地 は 、当 初 は 入 居 者 の 多 く が 若 い 夫 婦 や 子 育 て 世 代 で し た が 、建 設 か ら 年 余 り が 経 っ た 今 で は 、高 齢 の 夫 婦 や 一 人 暮 ら し 、外 国 人 の 世 帯 も く な っ て い ま す 。地 域 の つ が り を 深 め る た め 、日 本 福 祉 大 学 地 域 団 体 な ど 関 わ り 、商 店 街 の 空 き 店 舗 を 活 用 し て 、手 作 り の コ ミ ュ ニ テ ィ ス ペ ー ス「 朝 倉 団 セ ン タ ー プ レ イ ス 」を 令 和 元 年 5月 に オ ー プ ン し ま し た 。誰 で も 気 軽 に 集 ま れ る 居 場 所 と し て 、 地 域 の 多 世 代・多 文 化 交 流 の 拠 点 と な っ て います。
知 多市 彩 景 知多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知多市の今 グリ ーンベルト つつじ が 丘 グ リ ー ン ベ ル ト と は 、住 宅 地 と 工 業 地 帯 を 分 離 す る た め に 設 置 し た 緑 地 帯 の ことです。本市では、 埋め立て造成された臨海工業地帯に昭和 年代から進出 し た 企 業に 対 し 、西 知 多 産 業 道 路 沿 い に 常 緑 樹 の 植 栽 を 義 務 付 け ま し た 。そ の 広 さは幅約 1 00m、 長さ 6㎞に及びます。 住 宅 地 と 工業 地 帯 を 分 離 し 、大 気 汚 染 、騒 音 な ど 環 境 問 題 の 発 生 を 抑 制 す る こ と を 目 的 とし た 人 工 の 森 で し た が 、樹 木 の 成 長 に よ り 見 事 な 自 然 の 森 と な り、緑園都市を標榜する本市のシンボルとなりました。 企 業 の 丁 寧 な 維 持 管理 に よ り 年 以 上 育 ま れ た 森 に は さ ま ざ ま な 生 物 や 植 物が 生 息 し 、現 在 で は 貴 重 な 工 業 地 帯 に お け る 生 態 系 を 形 成 す る 場 所 に も な っ て い ま す 。 N P O・大 学・企 業・自 治 体 な ど が 協 働 す る 知 多 半 島 生 態 系 ネ ッ ト ワ ー ク 協 議 会 の 活 動 拠 点 と な っ て い ほ か 、 本 市 と 企 業 が 協 働 し て 生 物 や 植 物 を 観 察 す る「 自 然 調 査 隊 」を 開 催 す る 、自 環 境 や 生 物 多 様 性 に つ い て 学 び 、考 え る 場 と な っ て ま す。 市 制 施 行 時 に 施 工 さ れ た 朝 倉 土 地 区 画 整 理 事 業 で は 、旧 日 本 住 宅 公 団 に よ り 約 0・ ㎢が 開 発 さ れ 、昭 和 年 3 月 に つ つ じ が 丘 1 〜 4 丁 目 が 誕 生 し ま し た 。 つ つ じ が 丘 団 地 に は 賃 貸 、分 譲 を 含 む 中 高 層 の 集 合 住 宅 の 他 、一 戸 建 て の 分 譲 住 宅 、民 間 換 地 の 住 宅 も 合 わ せ 、最 終 的 に 約 3 1 8 0 戸 が 建 築 さ れ ま し た 。そ こ に昭和 年以降約9 0 00人が入居し、 本市の人口急増の象徴でもありました。 つ つ じ が 丘 に あ る 朝 倉 団 地 は 、当 初 は 入 居 者 の 多 く が 若 い 夫 婦 や 子 育 て 世 代 で し た が 、建 設 か ら 年 余 り が 経 っ た 今 で は 、高 齢 の 夫 婦 や 一 人 暮 ら し 、外 国 人 の 世 帯 も く な っ て い ま す 。地 域 の つ が り を 深 め る た め 、日 本 福 祉 大 学 地 域 団 体 な ど 関 わ り 、商 店 街 の 空 き 店 舗 を 活 用 し て 、手 作 り の コ ミ ュ ニ テ ィ ス ペ ー ス「 朝 倉 団 セ ン タ ー プ レ イ ス 」を 令 和 元 年 5月 に オ ー プ ン し ま し た 。誰 で も 気 軽 に 集 ま れ る 居 場 所 と し て 、 地 域 の 多 世 代・多 文 化 交 流 の 拠 点 と な っ て います。 11 STORY of CHITA 6 75 48 48 50 昭和52年ごろの上空から見たつつじが丘 センタープレイスで開かれた「キッズおえかき企画」の様子
12 ドブガイの化石 知多市八幡で出土した、淡水にす むドブガイの化石です。数百万年前に このあたりが湖(東海湖)だった頃の 生き物です。 約1800万年前の海だったころの地層・師崎層(南知多町)と化石 知多半島の南部に分布し、海の生物の化石が見つかることで 知られています。この師崎層は、知多市域では地下数百mの深 さに埋まっていると考えられます(。提供:南知多町教育委員会) ナイフ型石器 昭和時代に発行された知多市誌などでは「知多市の 歴史は縄文時代に始まる」とされていましたが、これら の石器の発見により、さらに昔の旧石器時代までさかの ぼることが明らかになりました。 知多 市になるまで 知多 の 成 り 立 ち およそ 1 80 0万 年 前 、知 多 市 周 辺は海でした 。そ の後 、海 底 が隆 起して、現 在の渥 美 半 島から 志 摩 半 島 あ た り までが 陸 続 き と な り まし た 。伊 勢 湾 から 濃 尾 平 野にか けては 淡 水の 湖であ る 東 海 湖 が 形 成 さ れ 、 約 5 00万 年 前には湖の面 積 が琵 琶 湖の5 倍もあっ たといわれていま す 。この 東 海 湖 は 、川から 流れ 込 む 土 砂の 堆 積 や 地 殻 変 動に よ り 徐 々に 小 さ くな り 、数 十万年前には消滅しました。 東 海 湖 が 消 滅し た 後 、土 地 が 隆 起して南 北に 細 長 い半 島 型の 地 形 が 形 成 さ れ ま 。併 せて 氷 河 期の 海 面 変 動 な どによ り 、現 在の 知 多 半 島 形 作 られてき たのです。 縄 文 時 代 縄 文 時 代は 、 知 多 市 域で定 住 生活 が営 まれはじ め た 時 代です 。 初 めに 選 ばれた 場 所 は二 股貝 塚( 新 知 ) や 楠 廻 間 貝 塚( 八幡 ) で 、丘の 上にムラ が作 ら れ た と 考え ら れ 、捨 てら れた 食材 の ゴミや 壊 れた 道 具な ど が 積 み重 な り 貝 塚 が 形成 され ま し た 。当 時 は約 7 0 0年 前の 縄 文 時 代 早 期にあた り 、 縄 文海 進 と 呼 ばれ る 海水 面の 上 昇 によ り、 遺跡 のあ る 丘のふも とまで海が入り込んでいたと 考えられます。 海で捕っ た 魚 や 貝 、狩 りで捕ったシカやイノシシな どの 獣 、山 で 集 め た 木 の 実 や 山菜 な ど を 、こ の 時 代 に 発 明 さ れた 土 器を 使って料 理し 、食べてい た ようです。 その 後 も 縄 文 時 代を 通じて 人 々の 痕 跡 が 見 ら れ 、特 貝 塚 は 6 カ 所 で 見つかっている な ど 、海 に 面 し た 知 多 市 域 は 縄 文 人 に とって 暮 ら し や すい 場所だったようです。 旧 石器 時 代 市 内 最 古の 人 間の 痕 跡 として、金 沢 遺 跡( 金 沢 )と 野 中 大 曽 根 遺 跡( 日 長 )で発 見されたナイフ型 石 器と 呼 ばれ る 石 器 が 挙 げら れ ま す 。住 居 跡 な ど は 見つか っていま せ ん が 、こ れ らの 遺 物 か ら 約 1万 数 千 年 以 上 前の旧 石 器 時 代に知 多 市 域で人 間 が 活 動していた ことが分かります。 この 頃 は ま だ 土 を 作 ら ず 、石 を 叩 き 割って 作っ た 石 器 を 使い、食 料 を 求 めて 移 動し な が ら 生 活 をし ていまし た 。ま た 氷 河 期 と 呼 ばれ る 気 温 低い時 期 で、海 水 面 が現 在より 1 00m以 上 低かったため、伊 勢 湾 は 陸 と な り 、海 岸 線 は 渥 美 半 島から 数 十 ㎞ 南に あ り ました 。そのよ うな 環 境の中で、このあたりは 旧 石 器 時 代のハンタ ー ち が 獲 物 を 探 す 、狩 場 だった と考えられます。 弥 生 時代 縄 文 時 代の 後半 以 降、 海水 面の 低 下によって 沿 岸 部に 平 野 が 形 成 され はじ め まし た 。 知 多 市 八 幡 から 東海 市 大 田 町にか けても 平ら な広 い土 地 が 生 ま れ 、 人々の生活の中心地となっていきま す。 大 陸 から 伝 わ り 日 本 列 島に 広 がった米 作 りは 、こ のあ た りでは 弥 生 時 代の 中 ご ろに 始ま りま し た。 こ の 頃の 集 落の 跡 として、法 海 寺 遺跡(八 幡 ) や 細見 遺 跡(八幡 )があります。 また 、弥 生時 代 後期の遺 跡であ る 大 廻 間 遺 跡( 朝 倉町 )は 、標 高 mほ どの高い位 置 にあり、他の集団との争 いに備えて見晴らしの良い場 所に築かれたものです。 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今
13 STORY of CHITA 30 二股貝塚の土偶 妊娠中の女性を表現していると考えられる土偶 の他、ピアスのように耳に開けた穴にはめる土製の 耳飾りなども見つかっており、おまじないに使用さ れたと考えられます。 細見遺跡の発掘調査 名鉄朝倉駅北側に広がる細見遺跡では、当時の 海岸線付近に弥生時代を通じて集落が営まれてい ました。 二股貝塚 旧知多市民病院(新知)の近くの山の中から発見され、 約200㎡の貝塚全体で発掘調査が行われました。歴史民 俗博物館では、貝塚の一部を保存し、常設展示しており、 たくさんの貝殻の中に土器や石器が混じっていることが 観察できます。 知 多市になるまで 知 多の 成 り 立 ち およそ 1 8 00万 年 前 、知 多 市 周 辺は海でした 。そ の後 、海 底 が隆 起して、現 在の渥 美 半 島から 志 摩 半 島 あた り までが 陸 続 き と な り まし た 。伊 勢 湾 から 濃 尾 平 野にか けては 淡 水の 湖であ る 東 海 湖 が 形 成 さ れ 、 約 50 0万年 前には湖の面 積 が琵 琶 湖の5 倍もあっ たといわれていま す 。この 東 海 湖 は 、川から 流れ 込 む 土 砂の 堆 積 や 地殻 変 動に よ り 徐 々に 小 さ くな り 、数 十万年前には消滅しました。 東 海 湖 が 消 滅し た後 、土 地 が 隆 起して南 北に 細 長 い半 島 型の 地 形 が 形 成 され ま 。併 せて 氷 河 期の 海 面 変 動 な どによ り 、現 在の知 多 半 島 形 作 られてき たのです。 縄 文 時 代 縄文 時 代 は 、知 多 市 域で定 住 生 活 が 営 まれはじ め た 時 代です 。初 めに 選 ばれた 場 所 は二 股 貝 塚( 新 知 ) や 楠 廻 間 貝塚( 八 幡 )で 、丘の 上にム ラ が 作 ら れ た と 考 え ら れ 、捨 てら れ た 食 材の ゴミや 壊 れ た 道 具 な ど が 積 み 重 な り 貝塚 が 形 成 さ れ ま し た 。当 時 は 約 70 00年 前の 縄 文 時 代早 期にあ た り 、縄 文 海 進 と 呼 ばれ る 海 水 面の 上 昇に よ り 、遺 跡のあ る 丘のふ も とまで海が入り 込んでいたと 考えられます。海で捕 っ た 魚 や 貝 、狩 りで捕ったシカやイノシシな どの 獣 、山 で 集 め た 木 の 実 や 山 菜 な ど を 、こ の 時 代 に 発 明 さ れ た 土 器を 使って料 理し 、食べて いた ようです。 その 後 も 縄 文 時 代を 通じて 人 々の 痕 跡 が 見 ら れ 、特 貝 塚 は 6 カ 所 で 見つかっている な ど 、海 に 面 し た 知 多 市 域 は 縄 文 人 に とって 暮 ら し や すい 場所だったようです。 旧 石 器 時 代 市 内 最 古の 人 間の 痕 跡 として、金 沢 遺 跡( 金 沢 )と 野 中 大 曽 根 遺 跡( 日 長 )で発 見されたナイフ型 石 器と 呼ばれ る 石 器 が 挙 げら れ ま す 。住 居 跡 な ど は 見つか っていま せ ん が 、こ れ らの 遺 物 か ら 約 1万 数 千 年 以 上 前の旧石 器 時 代に知 多 市 域で人 間 が 活 動していた ことが分かります。 この 頃 は ま だ土 を 作 ら ず 、石 を 叩 き 割って 作っ た 石 器 を 使い、食料 を 求 めて 移 動し な が ら 生 活 をし ていまし た 。ま た 氷河 期 と 呼 ばれ る 気 温 低い時 期 で、海 水 面 が現 在より 1 0 0m以 上 低かったため、伊 勢 湾 は 陸 と な り 、海 岸 線 は渥 美 半 島から 数 十 ㎞ 南に あ り ました 。そのよ うな 環 境の中で、 このあたりは 旧 石 器 時 代のハンタ ー ち が 獲 物を 探 す 、狩 場 だった と考えられます。 弥 生 時 代 縄文 時 代の 後 半 以 降 、海 水 面の 低 下によって 沿 岸 部に 平野 が 形 成 さ れ はじ め まし た 。知 多 市 八 幡 から 東 海 市 大田 町にか けても 平 ら な 広い土 地 が 生 ま れ 、 人々の生活の中心地となっていきます。 大 陸 から 伝 わり 日 本 列 島に 広 がった 米 作 り は 、こ のあ た りでは 弥 生時 代の 中 ご ろに 始 ま り まし た 。こ の 頃の 集 落の 跡 として、法 海 寺 遺 跡( 八 幡 )や 細 見 遺 跡(八幡 )があります。 また 、弥 生 時 代 後 期の遺 跡であ る 大 廻 間 遺 跡( 朝 倉 町 )は 、標 高 mほ どの高い位 置 にあり、他の集団との争 いに備えて見晴らしの良い場 所に築かれたものです。 知多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知多市の今
知多 市になるまで 海 岸 に 近い場 所の 畑 な ど に 、長 さ㎝ く らいの 棒 状の 土 器 が 落 ちている こ と が あ り ま す 。こ れ は も と も と は 器の 下 棒 状の 脚 が 付 く 形の 土 器で 、砂 浜 に 脚 を 突 き 刺して、周 りで火 を 焚 き な がら 海 水 を 煮 詰 めて塩を作った、 製塩土器と呼ばれる土器です。 この形の製 塩土 使われていた 奈 良 時 代に都 が お かれていた 奈 良 県の 平 城 宮 か ら 、大 量の 木 簡 が 発 見 されていま す 。その 中には 、このあ た りから 天平 元 ( 72 9) 年に塩が調( 当 時の税 制 度の内 、地 方の特 産 品 を 納 め る もの )とし て 納 めら れ た こ と が 記 さ れ て い る も の が あ り ま す 。 「 13 00年 前に 朝 倉に 住んでいた 和 尓 部 氏 が 、税 金 として地 元で作った 塩を 送った 」こと が分かる 、知 多 市域に関する最も古い文字資料です。 古墳 時 代 知 多 市 内で見つかっている 古 墳 は 、寺 山 古 墳( 南 粕 谷 )、 椿 古 墳 ( 新 知 )、 岩 之 脇 古 墳(八幡 )の3 基で、 いずれも 小さな 円 墳です。寺 山 古 墳は 直 径 約m、 高 さ は 約2mあ り 、大 き な 石 を 組 ん だ 石 室 が 地 中 に残っています。 椿古 墳は大正時代には副葬品の須 恵 器 が出土したと 言われ、現 在も 崩れた石 室の一部 が見られます。 下 内 橋 遺 跡( 寺 本 新 町 )で は 、古 墳 そ の も の は 見 つ か っ て い ま せ ん が 、発 掘 調 査で埴 輪 が 出 土 し てお り 、埴 輪 を 並べ た 古 墳 存 在 し て い た 可 能 性 が あ り ま す 。ま た 、法 海 寺 遺 跡( 八幡 )な ど古 墳 時 代 の 遺 物 が 出 土 する 遺 跡 も 各 地 に あ り 、そのよ う な 場 所で 生 活していた人々の中でも 有 力 な 人 物 のお 墓 と し て 古 墳 を 築 い た と考 え られます。 中 世 古代 平 安 時 代 後 半の 世 紀 ご ろ 、知 多 半島で焼 き 物の 生産 が始まりました 。 丘陵 部に窯が築かれ、ここで作 られた 壷や 甕 は 船を 使って伊 勢 湾から 全 国 各 地へ運 ばれました 。また 茶 碗やお皿な どの食器 類も 作られ、 主に 地元 で 消 費 さ れ まし た 。 知多 半 島 全域に 広 がっ ていた 焼き 物 作 り は 、室 町 時 代にな る と 現在の 常 滑 市の一部に集中するようになり、 常滑焼として引き継 がれていきます。 室 町 時 代の 初 め頃 、知 多 市 域 周 辺 を 治 めていたの は一色 氏で、慈 雲 寺 ( 岡 田 )の 創 建 や 大 興 寺 ( 大 興 寺 ) の 再 興 、大 野 城( 常 滑 市大 野 )の 築 城 な ど を 行ってい ます。戦 国 時 代に一色 氏 が衰 退すると 、知 多 市 域北部 は 寺 本 城 主の 花 井 氏 が 、南 部は 大 城 主の 佐 治 氏 が 勢 力 を 強 め ま す が 、桶 狭 間の 戦いで今 川 義 元 が 織 田 信 長に討たれた 後は 織 田の勢 力 下におかれることに なりました。 大 草 城( 大 草 )は 、安 土 桃 山 時 代に 織田 信 長の 歳 下 の 弟 、織 田 長 益 に よって 築 か れ た 城です 。知 多 を 支 配 する た めに が 新 たに 城 を 始 め 、土 塁と 堀 で 周 囲 を 囲った 本 丸 と 二の 丸 や 、その 外 側の 外 堀を 備えた三の丸を 造りました が、完 成を 前に中 断し 、未 完の 城 と な り まし 。現 在 本 丸 と 二の 丸の 大 部 分 が 大 草 公 園 として整 備 さ れ 、土 塁 や 堀 を 見 学 する こ とができます。 尾張国智多郡贄代郷朝倉里戸主和尓部色夫智調塩三斗 天平元年 知 多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知 多 市の今 わにべ 10 椿古墳の天井石 椿古墳は名鉄古見駅近くの山の上にあり、 石室には離れたところから持ち込まれた1m 以上の大きな石が使われていました。 塩づくりの様子(東浦町郷土資料館ジオラマ) 海水をそのまま煮詰めると大量の時間と燃料が 必要となります。そのため、海水を海藻にかけ天日 で乾かすことを繰り返した後、海藻を燃やし、その 灰をさらに海水に溶かした、塩分濃度の濃い塩水 を作ってから製塩土器で煮詰めました。 製塩土器(東海市松崎遺跡出土) 土器を使った塩作りは、古墳時代 から平安時代にかけて行われまし た。 10 平城宮出土木簡 納税品に荷札として付けられてい たものです。“贄代郷”がどのあたりを 指しているかは分かりませんが、“朝 倉里”は現在の名鉄朝倉駅周辺と考 えられます。 14 出典:木簡庫 (https://mokkanko.nabunken. go.jp/ja/6AABUS48000668)
知 多市になるまで 海 岸 に 近い場 所の 畑 な ど に 、長 さ㎝ く らいの 棒 状の 土 器 が 落 ちている こ と が あ り ま す 。こ れ は も と も と は 器の 下 棒 状の 脚 が 付 く 形の 土 器で 、砂 浜 に 脚 を 突 き 刺して、周 りで火 を 焚 き な がら 海 水 を 煮 詰 めて塩を作った、 製塩土器と呼ばれる土器です。 この形の製 塩土 使われていた 奈 良 時 代に都 が お かれていた 奈 良 県の 平 城 宮 か ら 、大 量の 木 簡 が 発 見 されていま す 。その 中には 、このあ た りから 天平 元 ( 7 29) 年に塩が調( 当 時の税 制 度の内 、地 方の特 産 品 を 納 め る もの )とし て 納 めら れ た こ と が 記 さ れ て い る も の が あ り ま す 。 「 1 30 0年 前に 朝 倉に 住んでいた 和 尓 部 氏 が 、税 金 として地 元で作った 塩を 送った 」こと が分かる 、知 多 市域に関する最も古い文字資料です。 古 墳 時 代 知 多 市 内で見つかっている 古 墳 は 、寺 山 古 墳( 南 粕 谷 )、 椿 古 墳( 新 知 )、 岩 之 脇 古 墳(八幡 )の3 基で、 いずれも 小さな 円 墳です。寺 山 古 墳は 直 径 約m、 高 さは 約2mあ り、 大 き な 石 を 組 ん だ 石 室 が 地 中 に残っています。 椿古 墳は大正時代には副葬品の須 恵 器 が出土したと 言われ、現 在も 崩れた石 室の一部 が見られます。 下 内 橋 遺 跡(寺 本 新 町 )で は 、古 墳 その も の は 見 つ か っ て い ま せ ん が 、発 掘 調 査で埴 輪 が 出 土 し てお り 、埴 輪 を 並べ た 古 墳 存 在 し て い た 可 能 性 が あ り ま す 。ま た 、法 海 寺 遺 跡( 八幡 )な ど 古 墳 時 代 の 遺 物 が 出 土 す る 遺 跡 も 各 地 に あ り 、その よ う な 場 所で 生 活していた 人々の中でも 有 力 な 人 物 の お 墓 と し て 古 墳 を 築 い た と 考 え られます。 中 世 古 代 平 安時 代 後 半の 世 紀 ごろ 、知 多 半 島で焼 き 物の 生産 が始まりました 。丘 陵 部に窯 が築かれ、ここで作 られた 壷や 甕は 船を 使って伊 勢 湾から 全 国 各 地へ運 ばれました 。また 茶 碗やお皿な どの食 器 類も 作られ、 主に 地 元で 消 費 され まし た 。知 多 半 島 全 域に 広 がっ ていた 焼 き 物 作 り は 、 室 町 時 代にな る と 現 在の 常 滑 市の一部に集中するようになり、 常滑 焼として引き継 がれていきます。 室 町 時 代の 初 め 頃 、知 多 市域 周 辺 を 治 めていたの は一色 氏で、慈 雲 寺( 岡 田 )の 創建 や 大 興 寺( 大 興 寺 ) の 再 興 、大 野 城( 常 滑 市 大 野 )の 築城 な ど を 行ってい ます。戦 国 時 代に一色 氏 が 衰 退すると、知 多 市 域 北 部 は 寺 本 城 主の 花 井 氏 が 、南 部 は 城 主の佐 治 氏 が 勢 力 を 強 め ま す が 、桶 狭 間の 戦いで今 川 義 元が 織 田 信 長に討たれた 後は 織 田の勢 力 下におかれることに なりました。 大 草 城( 大 草 )は 、安 土 桃 山 時 代に 織 田 信 長の 歳 下 の 弟 、織 田 長 益 に よって 築 か れ た 城です 。知 多 を 支 配 する た めに が 新 たに 城 を 始 め 、土 塁 と 堀 で 周 囲 を 囲った 本 丸 と 二の 丸 や 、その 外 側の 外 堀 を 備えた三の丸を 造りました が、完 成を 前に中 断し 、未 完の 城 と な り まし 。現 在 本 丸 と 二の 丸の 大 部 分 が 大 草 公 園 として整 備 さ れ 、土 塁 や 堀 を 見 学 する こ とができます。 尾張国智多郡贄代郷朝倉里戸主和尓部色夫智調塩三斗 天平元年 知多 市 彩 景 文 化 財 知 多 市になるまで 知 多 市のあゆみ 統 計データ 年 表私たちの住むまち 知多市の今 わにべ 七曲古窯A3号窯 焼き物を焼くために山の斜面にトンネル状に 掘った窯跡は、知多市内でこれまで100基以上 が見つかっており、消滅したものや未発見のもの を合わせると数百基の窯が築かれたと考えられ ます。この七曲A3号窯は、天井は削られてなく なっていますが、窯の床が全面残っていました。 15 STORY of CHITA 12 13 寺本城 天文23(1554)年の村木砦の戦いの際、花井氏 は今川軍に協力しました。そのため、戦いに勝利し た織田軍は帰り道に寺本に立ち寄り、城下を焼き 払っていったそうです。 大草城二の丸 江戸時代に尾張藩家老の山澄家が大草城の隣に屋敷 を築き、城址を保護しました。現在も大草公園内には 400年以上前の遺構が残っています。
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